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0312
くるりの「開かれた」世界について。
カテゴリー: 神保勇揮

文:神保勇揮

「新しいものなんて何もない」なんてポップカルチャーの世界で言われていた時期がここ20年ぐらいあったみたいだけれど、相変わらずぼくはタワーレコードに行って新譜を買ってきてしまう。「新しいものなんて何もない」という言説そのものが、カルチャーの送り手の苛立ちだったり、それを受けて何かを発信するマス・コミュニケーション的なマッチポンプ(「そんな時代だけど新しい感性がここに!」みたいな)だったりするんだろうけど、まぁそれ自体はどうでも良くって、送り手は送り手なりに、マス・コミュニケーションの方はマス・コミュニケーションの方なりに(実際、本気になって探してみるとどのジャンルでも自分が接しきれないくらい素晴らしい送り手が山ほどいることに気がつくけどネ)、そしてぼくはぼくなりに問題提起や楽しい事があったりする。新譜を買ってリスナーでいる時のぼくは、素直に好きな作品を好きと言いたい。

そんなわけで前置きが長くなってしまったけども、先日発売されたくるりのライヴ・アルバム「Philharmonic or die」がすごくよかった。くるりという日本のロック史上でもかなり特異とされるであろうバンドの経緯からそれを読み解こうとするとあまりに長くなるし、インディー時代から最新スタジオ盤「ワルツを踊れ」発売までを神がかり的にうまくまとめているミュージックマガジン2007年7月号(この雑誌の特集の手腕はどれを読んでも惚れぼれする)があれば十分なので、今回はこのアルバムがいかにスゴいかという事を書こうと思う。
このアルバムがスゴいのは、まずとんでもなく「開かれている」ということだ。オーケストラをバックに従えたDisc1と、ローリングストーンズや村八分みたいな演奏のDisc2の差は方法論の差でしかない。

まず最初に「開かれている」という言葉を聞いてあなたはどんなものをイメージするだろう? カルチャー方面で言えばぼくは「売れ線」を想像する。その辺りについてはVol.16でも特集したし、良い面・悪い面両方ある。一番最初に書いた「新しさ」というものの多くは方法論に依拠するとぼくは思っていし、くるりがデビュー当時に背負っていた「オルタナティブ」というジャンルも「開かれている」「売れ線」とは別の方向で新しい音楽を切り開いていくものだったからこそ、そういうくるりが好きだった人からは「アンテナ」以降のくるりは良い印象を持たれないかもしれない。

しかし、このライヴ・アルバムはそんな「方法論なんてそんなの関係ねぇ!」と言わんばかりだ。ローリングストーン日本版で「Youtube、myspace以降の音楽シーンをどう捉えますか?」という質問を様々なアーティストに投げかける企画を行ったとき、R.E.M.のマイケル・スタイプは「ネットの発達でリスナーの耳が肥えて、本物の音楽しか通用しない時代になったと思うよ!」と答えていた。この「本物の音楽」って何だろう? と考えるとき、ぼくはこのライヴ・アルバムを挙げる。売れ線と言っても決してただわかりやすいだけの消費される記号(「きみが好き」だの「思い出の手紙が~」みたいな)ではなく、今までくるりを聴いたことの無いような人にまで届きそうな「強度」を持っている。強度っていうのはつまり、女の子に何の情報も与えずにパっと聴かせて良いと思うかどうかだ。知識や背景に依らない、「この瞬間」の幸福度をそれが上げるか下げるかただそれだけだ。岸田もミックスを相当拘ったとインタビューで答えていたし、実際Disc1のラストを飾る「ジュビリー」を聴いても、売れてきたロックバンドにありがちな「感動的な曲をとりあえずストリングスアレンジしてみました」といった安直さは一切感じないどころか、スタジオバージョンよりも感動してしまった。

つまり、くるりはオリコン1位になるJ-POPとは全く違った手法でそれと同じ規模の「開かれた」状態を作り出してしまったのだ。Disc1とDisc2を通して聴いても進歩史観的オルタナティブの文脈で見れば新しい事は一切やってないけど、これってすごく新しいことなんじゃないかな? 同時代的に横の軸を広げてみると、例えば散々ブログ界隈で語られ続けるPerfumeも近いものがあると思っている(興味がある人はコチラを参照のこと。この人は本当に素晴らしい文章ばかり書く人だと思う)。膨大な情報量をもたらしたインターネットが、逆に専門的な知識や背景に依らない良い意味での最大公約数的なものを検索の1番上に置いたのだとしたら、それはすごく「いま・ここ」なんだと思う。そして、それがきっとマイケル・スタイプの言った「本当の音楽」ということなんだろう。

もちろん、バトルズ(日本ならnhhmbase。あんなに開かれたポストロックは世界を見ても絶対にない)のように進歩史観的に「新しい音」を生み出すアーティストも日進月歩でたくさん生まれている。ただ、メジャーとかマイナーとか売れ線とかアンダーグラウンドとか、そんな区分で喜んだりそれを貶したりするのはもう「古い」じゃんか。ともぼくは思うわけである。フジロックのホワイトステージを人で埋め尽くしたバトルズのライヴの感動をぼくは忘れられないし、全てをフラットにしたネット以降だからこそ、開かれた音を発見させてくれたくるりはこれからも「新しい」ことをしてぼくたちを魅了し続けてくれるだろう。

というわけで、現在深夜2時半なんだけどもこれから「開かれた記事」を目指して編集していこうと思う。万作さん、こんなの書いててごめんなさい!

0301
「援助交際プレイ」がしたいぼくの「どうでもいい想像力」に対する憧憬
カテゴリー: 神保勇揮

文:神保勇揮

こういう風(タイトル)に書くとこいつはいきなり何を言い出すのだ? と思うかもしれないが、騙されたと思って読んで欲しい。子が親を殺し親が子を殺し、様々な側面で生活に対して圧迫感が見られる現在に本当に必要なのはこういった「どうでもいい想像力」だとぼくは考える。それがこうした露悪的な表現で現われてくる理由は文中で明らかにしていくが、露悪的な表現それ自体が逆説的に「聖なるもの」を明らかにするという構図はよくあるのである。
まぁ、本当に騙されたらごめんなさいということで。

というわけで以下がぼくの考える「援助交際プレイ」である。

①彼女、あるいは親しい女性を見つける。

②粘り強く交渉(時に土下座、時に金銭を介したり「今度飲みおごるから!」と必死に頼む)。

③いざ、当日。彼女に中学あるいは高校の制服を着てもらい、ぼくはスーツ着用そして頭をポマードでガチガチに固める。

④ラブホテルに入る。ホテル街に入った時点で彼女に腕を組んでもらえると良いだろう。中ではセックスでも飲み会でも人生相談でも、3時間過ごせれば何をしても良い。この辺りは事前の交渉とその女性との友好度、そして自身のアグレッシブさが試される。ただ、セックスする事が目的ではないということを忘れてはいけない。

⑤サービスタイムが終了した後、会計を済ませて外に出る。ここからが本番である。ホテルの外でぼくが可能な限り気味の悪いニタニタ笑いを浮かべ、「○○ちゃん、ありがとうねぇ」と言いながら財布から金銭を取り出し、彼女に手渡す。

途中に「ただ、セックスする事が目的ではないということを忘れてはいけない」と書いたが、ぼくがここで一番したいのは⑤の「可能な限り気味の悪いニタニタ笑いを浮かべ、「○○ちゃん、ありがとうねぇ」と言いながら財布から金銭を取り出し、彼女に手渡す」の部分であるからだ。
それは何故か。あくまでぼくがしたいのは、⑤を行う事によって「あ、あいつ援助交際してやがる!」と視線を浴び、あるいは視線を浴びていると勝手に勘違いするというシチュエーションそのものが面白いと思うからだ。それ以上でもそれ以下でもない。そこにフェティッシュは一切存在しない。そもそもセックスがしたいなら普通にすればいいだけだ。
そして、実現したとしても恐らく全くドラマチックな出来事が起こらず終わってしまうだろう。きっと面白いなんて微塵も思わずに終わるだろう。ホテルの外でお金を渡し合ってる女学生とサラリーマンがいたからなんだというのだ。冒頭に書いた「子が親を殺し親が子を殺す時代」の都市空間において行きかう人々は「街ではこういう非倫理的な事が平然と行われている。最低な時代だ」と憤るだけであり、そんなぼく(とその女の子)は誰かにメイワクをかけているだけであり、極めて自慰的なパフォーマンスでしかなく、その後に「あーくだらなかった」と笑い合うその瞬間のしてやったり感、あるいはその後に爆笑しながら飲む酒がうまいのだ。人生はそんなもんだと思う。

以前知人女性にそういうコンセプトも含めて本気で「俺はこれがやりたいんだよ!ね?ね?すげぇ面白そうじゃん?うわ、こいつら援交してる!みたいな(笑)一緒に職質とかされようよ?ね?俺が全部対応するから。あ、でも渡したお金は後で返してね。…あ、いや、嘘。そのお金で終わったら飲み行こう。俺が全部おごるからさ!」とお願いしてみたところ、見事なまでに「絶対にイヤ。っていうか神保ってそういうの似合わなくない?」と一蹴されてしまった。フリーキーな事柄に対して全く理解の無い女である。ふふん!だ。こういう女が日本の文化レベルを下げるのだ。ちょっとぐらいいいじゃんね。余談だがぼくは20代前後の女性が着る制服における似合わなさや無理している感じが大好きである。そういったある種の「不完全さ」にフェティッシュを感じているのかもしれない。

彼女がぼくに対して抱いていた疑問は恐らく「そんなことをして一体何になるの?」ということである。この「そんなことをして一体何になるの?」という疑問は二つの意味を内包している。一つ目は単純に興味がない・面白くないと思うということ、もう一つはそういう露悪的なことをやってアナーキーな気分に浸りたいんでしょう、そしてあなたは「何かが起こる世界」を期待しているんでしょう。ただ、あなたの方法論や理念では散発的に物事が起こっていくだけであってあなただけがそれ自体に楽しいと思うだけ。世界は何も変わっていかないわ。だから、誰かが迷惑と感じてしまうそんなことはそもそもしてはいけないのよ、ということである。

まぁ、その知人女性氏がそんな風に思っているかどうかは知らないのだけれど、この二つの意味を持つ疑問に対しては考えなくてはならないだろう。そして、得てしてそういった事まで考えられる知的な女性は、いざとなるとエッチだったりもするわけで(笑)←というこれもまたぼくのフェティッシュ。
たとえば去年外山恒一という人が東京都知事選に出馬し、「もうこんな政府は転覆するべきだ!」と演説した映像がYoutubeを通してサブカル的に人気を博した。あれも一種のアナーキズムであり、カーニバル化するなんちゃらであり、「何か」だ。ぼくはそういった「何か」を楽しんでしまうし心待ちにしてしまうし、こうやってここに文章を書かせてもらっている以上その楽しさであったりとか、大切さだとかを書き説いていきたいと思っている。ただ、本当に大切なのはその「次」である。外山恒一の話をすれば、彼が本当にどう思っているかは別として、都知事になり総理大臣になり政府を転覆しなければならない(そこまではいかなくとも、パフォーマンスそれ自体に満足してはいけないということである。外山氏に関してはあまり詳しくないけれど、スタジオボイスの連載とか自身のホームページは面白い)。それがこんな一瞬の花火みたいな活動で満足してしまって何事かという(それは外山氏だけではなく、その外山の営為を喜ぶ側にも当てはまる)批判は妥当である。そうなると上に書いた「二つの疑問」という問題が浮かび上がり、ぼくは知人女性氏との援助交際プレイに失敗するのだ。

ただ、ここでぼくがしたいと思っているのは別に政府を転覆させることではない。そこには何の理想も存在しない。「何か」をするということ、その方法論を確立すること、その楽しさを知らしめること、「どうでもいい想像力」を担保し養っていくこと、そのものが大切なんじゃないかと思う。目的がある/なしに関わらず方法論以上のものを見出してはいけない。たぶんぼくがしたいのはそういうことで、いわゆる「目的」のある人を紹介していくことが仕事なのだと思う。目的を持ってしまったらその時はその時でやればいいだけである。今はそこではなく、でも常にその「何か」を起こせる状態を担保しておくこと、それを大事にしたい。歴史を見ても、政治経済が困窮状態に陥って最初に規制されるのはイマジネーションなわけで。

というわけで、cinra magazine vol.17は現在鋭意作成中で、次の発行は4月頃でぼくもいくつかインタビューを担当させてもらったりするんだけども、この号ではひとつ「インディペンデント」という言葉がキーワードになっている(cinra magazine自体が毎回どこかでそういった側面はあるにしろ)。何らかの「目的」を持った人たちに影響されて享受する側が実践する側にまわってこそ、俯瞰的に見てインディペンデントな活動の役割がそれなんじゃないかとぼくは勝手に思っている(勝手に思っているだけなのでやっている人がそれを意識しているかどうかは別の話)。誰もやってないからこそインディペンデントでやるのであり、達成されたらされたで「体制化したカウンターカルチャー」の次を捜すのもまたインディペンデントなのだろう。そこにはいつも異様なエネルギーがあって、その現場にいられるということは実に幸せなことだと思う。

だから(?)、「援助交際プレイ」に賛同してくれるフリーキーな女の子も大募集中です。宛先はこちら(両方の人差し指を下に向けて左右させ、画面にはメールアドレスが表示される)。

0212
BUMP OF CHICKENはぼくの好きな「音楽」ではなかった、かもしれない
カテゴリー: 神保勇揮

文:神保勇揮

大学の講義っていうのはどうしてもこんなにかったるいのだろう。これは全ての大学生の悩みである。新書1冊分の知識を1年かけて講義して、その「新書1冊分」をおよそ20分の1に薄めた内容を聴くためにぼくらの大切な90分が奪われてしまう。これを時間の無駄と言わずになんと言うんだろうか。
というわけで、ぼくはいつも本を読みながら気分転換にノートを取っている。隣の席ではカップルが談笑していた。

男「ねぇ、バンプの新譜聴いた?」

女「聴いた聴いた。藤くんの詩っていつもほんとサイコーだよね。私聴きながら泣いちゃったもん」

男「俺も俺も。「K」とか「ダンデライオン」とかああいう絵本みたいな世界って最高だよね」

またバンプか。ぼくは溜息をつきながらノートを取る。
この「またバンプか」という言葉の裏には「俺の方がかっこいい音楽を知ってるぜバーカバーカ」という優越感がバーニングしているのは想像に難しくない。だけどいつだって勝ち組は彼女とバンプ話をしている彼であり、負け組はそんな彼らを見下すぼくである。だって、この文章にしても傍目から見てサイテーだしね。
こういう態度が友達を減らす事にぼくも遅ればせながら大学入学以降気がついたので、「ま、それはそれでいいんじゃない。俺が好きなのは別のものだけど」という態度を取るようにしている。バンプだろうがケータイ小説だろうが、好きなら好きでいいと思う。カルチャーの楽しみ方なんて人それぞれだし。

けど、今回はこの「人それぞれ」でしかない事をもう少し掘り下げて考えてみたいと思う。

実を言うと、ぼく自身バンプが好きな時期があった。その頃ぼくは中学生で、バンプは「天体観測」「ハルジオン」とシングルを出し、初のメジャーアルバム『jupiter』をリリースしていた。周りでパンプを聴いていたのは野球部のマツモトくんぐらいで、彼にはそれより前にリリースされた「Lamp」や「ダイアモンド」を借りたり、二人してお昼の放送で曲をかけたりしたものの誰もその良さをわかってくれなかった。周りはGLAYやモー娘。なんかで満足している人ばかりで、その頃からぼくは「本物の音楽を知ってるのは俺だけなんだ」とクダラナイ優越感をバーニングさせていたのだろう。高校に入ったら入ったでぼくが中学時代に聴かせてても絶対に好きにならないであろう人達まで「バンプマジかっけぇ~」などと言っていたのにかなり憤りを感じた。その頃にはナンバーガールに出会い、アンチ・バンプに転向してたんだけど。
それ以前・以降のぼくの音楽の聴き方はどう変わってしまったんだろう。

真っ先に考えられるのはぼくが「自分の好きなアーティストがメジャーになるのが許せない症候群」という病にかかっている、という事である。よくいるよね。こういう人って。よくいるのに自分がオンリーワンだと思ってるから怖いよね。ネット用語だと「中二病」って言ったりするよね。

けど、そういう結論で終わらせるのはあまり面白くはない。もう少し掘り下げてみよう。

メジャーな音楽好きの方々からマイナーな音楽好きの方々に向けられるバッシングとして、「歌詞聴き取れないじゃん」「曲がキャッチーじゃない」「歌がヘタクソすぎて聴けない」というものが挙げられる。マイナーな音楽好きの方々はこういった非難にいつも耐えてきたと思うが、こういった齟齬はどこで生まれてくるのだろうか。

思うに、皆どこかで「音楽」の聴き方が変わったのではないだろうか。
ぼくが明らかにそう感じたのは、上に挙げたナンバーガールの解散ライヴアルバム『サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態」(これが最初のナンバガ体験だった)をMDから最大音量で聴いた時だった。
イヤホンから流れる爆音に覆われて周囲の音が何も聞こえなくなり、周囲の風景が無音映画のような灰色に変わる。向井のテレキャスがうなる。アヒトのドラムがバカスカいう。中憲のベースはルードかつ直線的だ。ひさ子のジャズマスターが悲鳴をあげる。音、音、音のみ。ぼくは完全に音と一体化した。イヤホンを外した時わずかに感じる耳鳴りがとても心地良かった。まさに「音」を「楽」しんでいた瞬間だったと思う。

ぼくもまたそれまでは良い歌詞を好み、キャッチーな曲に涙を流し、上手い歌に聴き惚れていた時期があったからこそ、バンプを好き好んで聴いていたのだが、音と一体化する瞬間なんて感じた事はなかった。踊れるビートでも絶叫ボーカルでもねばっこいギターでも何でもいいが、この楽しさをわかるとわからないのでは雲泥の差であるようにも思う。

そういった意味で、ぼくがバンプを聴かなくなったのは「曲(演奏)がかっこよくなかった」からなんだろう。音楽として曲(演奏)がかっこよくないのはいただけない。新作『orbital period』も聴いてはみたが、「疾走感あふれるロック・ナンバー」とされる「カルマ」にしても、藤くんの素敵なボーカルを全面に押し出すための平坦なギター・ベース・ドラムなんてそれこそJ-POPのフォーマットじゃないか、とぼくはどうしても思ってしまう。

けど、だ。
バンプはぼくの信じている「音楽」なり「ロック」なりの快楽を提供してはくれないかもしれない。でも今になって改めて聴いてみると(一時期かなり毛嫌いしていた)詩もそれなりに感動できるし、キャッチーなメロディにも良さはたくさんある。これはこれ、それはそれだ。

メジャーな音楽好きの方々とマイナーな音楽好きの方々の間に「断絶」があるのであれば、ぼくはそれを埋める作業をしたいと思う。cinra magazineはその活動の性質上マイナーなバンドを取り上げる事が多いけれど、その分記事や紹介の仕方をキャッチーにしようと皆あれこれ苦心している。
だから、どっちの側にいる人も、できるだけ色んな価値観を楽しんでもらえればと思う。


「会いに来たよ 会いに来たよ 君に会いに来たんだよ
 君の心の内側から 外側の世界まで
 僕を知って欲しくて 来たんだよ」
(BUMP OF CHICKEN/涙のふるさと)

0205
スタッフブログ、ちょっと更新頻度上がります
カテゴリー: staff note
, 神保勇揮

はじめまして。CINRAボランティアスタッフの神保勇揮と言います。活動に参加してちょうど1年ぐらいで、今まで担当した記事は「太るのか痩せるのか!?マクドナルド VS ビリーズブートキャンプ」「一人で作れるマスメディア~注目の個人blog紹介~」「作戦会議『オバサンと闘う方法を考える』」です。magazine編集長の万作さんから「スタッフブログが全然書かれてないから何か書いてみない?」とお誘いを頂いたので、柏木さんに続いて以後週に1回ぐらいのペースで好き放題書いていきたいと思います。CINRAの活動をレポートするのはもちろん、他の内容もできるだけ「同時代性」に拘りたいと思っています。

ぼくは今現在大学3年生で、「同情するなら内定くれ!」状態なわけです。そんな事はどうでもいいんですけど。ただ、ぼくが過ごしてきた短い人生の中で「キレる17歳」だとか「ゆとり教育世代」だとか「ロスト・ジェネレーション世代」だとか、一定の世代を区切る言葉っていうのがありました(もちろん、そんなものはいつの時代にもあります)。ぼくの生まれた1986年生まれ前後の人間って、全部こういうのに乗り遅れてるんですよね。全部ちょっと上の先輩か、ちょっと下の後輩かどっちかで、ぼくが感じているだけかもしれませんが「ぼくの世代には何も無いんだ」という想いあるいはコンプレックスだけが強く残ります。

カルチャー、特に音楽を見てもぼくの青春時代を彩っていたくるり・ナンバーガール・スーパーカーなんかは大体解散していたり、過渡期は終わってしまっていました(千葉の高校に通うぼくにとっての「メジャー以外のロック」はしばらくゴーイングステディを始めとする青春パンクでした)。直後の世代であるバンプオブチキン・アジアンカンフージェネレーション・レミオロメンなど、あるいはそれを臆面なく「好き!」と言える人を見てもイマイチ乗り切れない感じがして何とも居心地悪いものでした。サークルの1年生とも何だか笑いのセンスが違うようで接するのがちょっと怖いです。海外ではニューウェーブ・リバイバルが叫ばれている頃でしたが、大半がハイプにすぎない粗悪なUKロックばかりで、「ぼくらが聴くべき音楽はこれだ!」と呼べるようなものはありませんでした(フランツフェルディナンドは好きです)。

ただ、じゃあ今からここで「○○世代」と名前を付けて過去を振り返るほどぼくは歳を取ってないですし、それほどの価値あるいは自分の実力があるかと言えばそうでもない。
だったら、何もテーマを決めずにただ身の周りの事を書くことが「ぼくらの世代」を映すことに繋がるのではないか、と考えました。だから、別にぼくと同世代でなくとも基本的に好きなように読んで下さって結構です。

一緒に時代と「寝て」みませんか?

ぼくが言いたいのは、ただそれだけです。
それでは、今後とも宜しくお願いします。かしこ。


神保勇揮

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