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木村覚インタビュー
「批評するなら恋をせよ」
インタビュー/構成:幾代沙緒里
撮影:井手聡太

<リード>
ダンスを中心に批評活動を行っている木村覚氏は、オーラル・クリティック・マガジン「ベクトルズ」への参加や、観客と批評家がダンサーを前にして批評をする「関係者全員参加!ダンスクリティーク」など、ちょっと変わったアプローチで批評と向き合っている。批評についてのお話が、いつしか恋愛の真髄に…。はたして恋と批評の関係とは!? 女子も男子も必読の、恋愛力向上批評論。

<見出し1>
「あなたのことが好き」と言っている時って、
相手の都合のいいところだけが好きだったりするよね

―木村さんはこのインタビューを前にして「難解なものというのは、つまらないんじゃなく、濃厚で、つまり細部が豊かで、ゆえに面白い」というメモを用意してくれました。木村さんは主にダンスを中心に批評文を書かれていますが、その面白さを言葉にすることの意味とは何でしょうか?

木村(以下K):何かについて文章を書いてみたいと思う出発点って、僕にとって共感じゃないんですよね。「分かる!」じゃなくて「分からない!」という時こそ、面白い魅力的な難解さに出会っている。興奮しているんだけど、決して自分にとって届かないものがそこにある気がする。その自分にとって理解できない何かに出会ったという、その出会いにこそ自分の批評の出発点があると思っているんです。そして、その出会いで発生しているのは、たいてい「不快」なんですよ。この不快をどう解釈すればいいのかを考えるプロセスというのが、自分にとって批評することの発端にあるという気がしますね。

―不快…ですか?

K:例えば、恋愛とかに言い換えると分かりやすいかもしれない。だいたい「あなたのことが好き」と言っている時って、相手の都合のいいところだけが好きだったりするよね。でも、最初に相手に強烈な異物性を感じたりする時こそ、本当に恋愛に発展する第一歩だったりして。

―ああ、それすごく分かりますね(笑)。嫌いだったはずの人を好きになって深みにはまっていく気持ち。

K:本当に興味がなかったり、本当につまらなかったりしたら、無関心のまま相手に巻き込まれることはない。けれども、不快なときって、対象と自分が接触を起こしている瞬間なんですよね。えてして相手のことを「分かった」なんて思いは、自分にとって都合のいいところだけつまんで「分かった気」になっているだけだったりする。そうじゃない、ちゃんと出会ったときには、しかるべき不快感が生じていると思う。それは自分の理解を崩されるような瞬間なので、やっぱり嫌なんですよ。だけど自分の枠が崩されることでしか他人に出会えないし、崩されたことを記述していくことでしか出会ったという事態や出会った相手が浮き彫りにならないと思うんですよね。

―なんだかいきなり共感してしまいましたが、そうしたものを発表しようと思われたきっかけにはどんなものがあったんでしょうか?

K:10年くらい前からですかね。大学院の友人たちとやっていた「演劇理論研究会」でBBSを作って、情報交換をするようになったんですね。一日のアクセス数が20とかで、内輪で見ていただけだったんですけど。ともかく自分が見たものを言葉にまとめて共有したいというのはあって、そこで少しずつ観賞した公演についての感想を書くようになって。それを、たまたま桜井圭介さんが読んでくれていて、今はなき『バレエ』への寄稿を勧めてくれた、ということがありました。自分が「ダンス批評」を名乗ってもいいかなと思う起点になったのは、2003年に美術出版社主催の「第12回 芸術評論募集」という批評文のコンペで、そこで暗黒舞踏の土方巽について書いて賞をもらったんです。

※オンマウスキャプション
桜井圭介
1960年生まれ。コンポーザー&アレンジャー。80年代中期、音楽と美術のパフォーマンス・ユニット「レプリカ」を主宰。2003年、「プリコグ」を設立。チェルフィッチュや吾妻橋ダンスクロッシングなどの企画制作を行い、常に時代の最前線のパフォーマンス・アートをリードしている。

―まず、ネット上からの書き込みからスタートしたんですね。現在でも木村さんの文章の多くはブログも含めネット上で見ることができますよね。

K:考えてみると、ああやってダンスについて書くことはほぼ10年くらい続いているんです。僕の批評の基本というのはブログというかネット上に書き込みをするということだったのかもしれない。あれを批評と呼んでいいかは疑問だけど。

―「批評と呼んでいいかは分からない?」それはなぜでしょうか?

K:とくに書き始めた頃は、見たその晩に書いてその晩にアップしたいという一種の即効性を楽しんでいました。翌日には一緒にダンスを見ている人たちと議論をしたり、とか。ただ即効性を重視する分、考察が乱暴になってしまう面もあると思うので、それを批評文と言うのはちょっとはばかられます。それにブログというツールって、ダラダラと書いていても一定量の文章が積みあがってしまうし、結構イージーに「批評」という言葉が、そうした文章に与えられがちだと思うんで、それはよくないかなと思います。

―なるほど。確かに、読者不在に思えてしまうようなブログも多いですよね。

K:ブログ論壇的な言葉については、丁寧に論じていて凄いなと思うこともあるけど、結局は自己アピールだったり自己承認を求めるためのものになっていて、その一方で、批評したい対象についてその細部をじっくり見ていくことが、必ずしも前面にきていない気がすることは多い。あと、“読まれること”や“社会に積極的に介入し刺激を与えようとすること”に自覚的であることは批評に必要なことだとも思います。とくに、批評って批評対象を介してしかできないことですよね。批評対象と「出会った」ということを、共感のみならず一種の不快感も込みで詳細に記述していくこと、できるだけ誠実に書いていくことが不可欠なんじゃないかな、と思いますね。

―“批評対象を介してしかできない”のなら、今生きている作家を批評することしかできないということでしょうか? もう亡くなってしまった人の作品を対象として認識することも批評と言えるのでしょうか?

K:どちらでも可能でしょうね。自分は批評文を書くと同時に研究者でもあって、美学の研究者としては18世紀の美学、とくにカントやドイツ初期ロマン主義などを中心に研究しているんです。そこにも、批評的な眼差しは働いているとは思う。けれど、今僕が「批評」としてやろうとしているのは、やっぱり現在活動している作家たちに、自分が巻き込まれていって、その出来事をなるべく誠実に書こうとすることでしょうね。

<次ページへのキャッチ>
批評したいなら、恋愛をすること

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