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インタラクティブンガク/アートレース

文:幾代沙緒里

突然ですが、授業中に「えーと」とか「であるからですね」といった教授の癖を「正」の字でカウントしたことがありますか? YESの方は、何もないところから意味を見出す批評性にあふれた人と言えるかもしれません。と申しますのも、1966年に批評家のロラン・バルト先生が「批評は科学ではない。科学は意味を論じるが、批評は意味を生み出す」とおっしゃっているのです。大学で人文科学と自然科学と社会科学をどれも・均一に・万遍なく、お勉強させられていたのは、論じられていたのであって決して生み出すことではなかったですよね。そんな中、眠気覚ましのスパイスとして見出された教授の“癖”は「自分がいかに眠くならないか」を批評的視点でもって考察した産物に他なりません。すべての批評はこれに通ず。もし同じように「たのしい批評」が「たのしい意味」を生み出せるのなら、「たのしい未来」を生み出したいのは皆同じはず。

気がついたら、ゼロ年代もあと2年で終わってしまい、次はどうあがいても10年代(これを「じゅう年代」と読むか「イチゼロ年代」と読むのかはお好みで)がやってくる。某雑誌の編集後記では「次の10年のムーブメントを決める芽は、すでに3年前から出始めている」と語られ、だとしたら2007年はそのちょうど「3年前」であった。ということで、2007年に話題になった作品群を「たのしく批評」してみます。

結論から言います。10年代は「プロセス」を見れば見るほど、たのしくなるはず!!

プロセスという言葉でまず思い浮かぶアート用語は、60年代後半から70年代前半にかけて展開された「最終的な完成形よりはそこに至るまでのプロセスを重視する」プロセス・アートかもしれない。しかし、以下に述べる作品はプロセスそのものがひとつの作品であり、新しい価値を生み出している。

d.v.dは「前代未聞のプロセシング・ポップ!」という佐々木敦氏の印象的なコメントと共に07年、DVD『ゼロワン・レスザン・ゼロワン』をリリースした個性派ドラム・ユニットだ。メンバーのItokenとJimanicaの二人はドラマーとしてのキャリアも長く、いまさら「個性派」という冠をつけなくともいいのかもしれない。しかしここでもう一人のメンバー、メディアアーティスト・山口崇司の存在によってd.v.dは「プロセシング・ポップ」を体現するプロセス・ユニットに昇華する。ライブはいたってシンプルなものだ。ItokenとJimanicaは、Macに接続されたドラムセットを通じてスクリーンに投影されるゲームをプレイする。最初はらくらくと笑顔でクリアしていく二人が、画面上の玉が増え続けるにしたがってだんだん真顔になっていき、プレイ不可能なカオス状態に陥っていく。そのうちもう開き直るしかない! とばかりにスティックはいつも通りの超絶ドラムテクニックを叩きだす…。d.v.dの新しさは、こうしたゲームプレイ→ミュージックプレイという身体の変化のプロセスが生のまま観客の前に提示されていくことであり、本来、観客にとっての目的であるはずの“普通の”ドラムプレイの地位は逆転しておまけにしかならない。観客は二人がゲームを楽しむリラックスした身体を見るために、わざわざライブに足を運ぶのだ。(d.v.dのライブ映像については、CINRA MAGAZINE vol.14に収録されている)

同じようなプロセスの表象は、違うジャンルでも同時多発的に起こっている。

例えばダンサーの手塚夏子は2001年から身体の細部を徹底的に観察・使用する「私的解剖実験」というシリーズを継続的に発表しているが、2007年3月に門仲天井ホールで発表された「プライベートトレース」で新たな地平に立ったと言えるだろう。「プライベートトレース」は、手塚自身の生活をビデオで撮影し、ある一部分の動きだけをトレースして振付として展開してみせた作品だ。トレースされるのは自宅マンションでの一家団欒風景なのだが、それは超低速でトレースされることによって全く別物のように浮き上がっており、公演の最後部にビデオ映像が流れることでこれまでの振り付けがトレースであることが明かされる。こうした振り付け手法を彼女は、「どの人もそれぞれの深層に抱えている要素を持ち、またその要素そのものも関わりのリアクションで生成されるという前提のもと、関わりの連鎖によりできている現在の世界を観察する。(注1)」ことであるとコメントしているが、こうした「自らの生成プロセスの探求」は、彼女ほど徹底的に向き合うことはないにせよ、万人に共通する感情に違いない。関わりのリアクション・親密なリアクションの超低速トレースは、その生成プロセスを考察する時間的余裕を観客に与えているともとらえることができるだろう。

さて、2007年はプロセスを可視化したもう一つ重要な作品がある。文芸誌『群像』とメディアアーティストのコラボレーションによる「文学の触覚」展(東京都写真美術館で2007年12月15日から2008年2月17日まで開催)だ。その出品作の一つ「タイプトレース道 舞城王太郎の巻」は、dividual(遠藤拓己+ドミニク・チェン+松山真也)が開発したテキストの生成プロセスを記録するソフトウェア「Type Trace(タイプトレース)」を使用し作家・舞城王太郎の思考の軌跡をたどっている。「Type Trace」はコンピュータ上でのタイピング行為をその時間情報とともに記録し再生するソフトウェアであり、つまりタイプするまでに時間のかかった文字は大きく、逆にすらすらと書けてしまったなら小さく表示される。一度過ぎ去った思考プロセスをコンピューターは正確に記憶し、「Type Trace」の使用者はその繰り返し再生から逃れられない。覆面作家である舞城王太郎は、その私生活はもちろんのこと創作過程についてもほとんど知られていない。そうした事実を逆手に取り、インタビューでさえ知ることのできない、小説の生まれ方を見事に可視化してみせた―舞城作品の特徴のひとつである擬態語の連続の方が、実は物語の根幹よりも長い思考によって書かれているという事実を、誰が想像していただろうか?―。

もうお分かりの通り、以上にあげた二つの作品は「プロセス」以外に「トレース」という共通項もあげることができる。手塚夏子は自分の身体を使ってトレースする。舞城王太郎の思考はコンピューターを使って、トレースされる。「プライベートトレース」と「タイプトレース道」は、身体とコンピューターという正反対の道具でもって「プロセスをなぞる」という同じことを試みているのだ。コンピューターが身体の微細な動きを完璧に再現することはまだできないし、私たちは一度生まれた思考をリセットして再表象することはもちろんできない。それぞれの表現プロセスにあった道具があり、07年は同時多発的にそれらが爆発した印象だ。

テクノロジーの進化によって、芸術も同時に進化するのか? という主題はいつの時代も論じられてきた(手塚の作品だって、ビデオが手軽に使えるようにならなければ生まれ得なかったものなのだから!)。しかしこれからおとずれる10年代、テクノロジーの進化は作品の進化よりも「プロセス」の深化を生み出していくような気がしてならない。作り手の生の身体を「見せられる」ものに転換する可能性が、そこにある。さて私たちには、それを「見られる」準備ができているだろうか?

「見られる」準備は、私たちが意味を見出していくことによって少しずつ為されていくだろう。10年代をたのしくするための準備をちょっとずつ、始めていかなければならない。なぜなら、批評は授業では教えてもらえないのだから。

 

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