CINRA.NET CINRA MAGAZINE CINRA RECORDS exPoP!!!!! CINRA MAGAZINE Volume17

頂上番組対談
あ○のりメンバー×しゃべ○場メンバー
「ヤラセじゃん、への積極的返答」

とあるテレビ番組に対する評として、「だってあの番組ってヤラセじゃん」で済ますやり方が最も面白くない。テレビに対する適当な批評がテレビ自体の質を下げている事に批評者は気付いていない。作り手は受け手の意向を巧妙に嗅ぎ取る。テレビという媒体の作り手が持つその嗅覚は、雑誌やらインターネットやらのそれとは比べものにならない、として問題無いだろう。なぜならば、探される媒体ではなく、探さざるとも晒されている媒体なのだ。より鮮度の保持が必須となる。「あいのり」という恋愛成就バラエティと「しゃべり場」という青春の苦悩バトルは、最も「ヤラセじゃん」で片付けられやすい番組である。しかし、ここまで「晒される」番組だからこそ非難に遭いやすいだけとも言える。なんと、ピンクのラブワゴンがNHK前に横付けされた。なかなか有り得ない光景である。しかし、話を始めた途端、この2番組のメンバー同士はテレビにおける批評への苛立ちを自然に投げ合ったのだった。
構成:たけだひろかず
場所:某局第4スタジオ

「本当に恋愛してるんですか? には、ええ本当に、と答える。
ったく、青臭くてすみません(笑)。」

あいのりメンバー(以下、A):散々言われたことかもしれないけども、学校への不満があるんだったらとりあえず学校に行ってから言えよ、っていう声にはどう答える(笑)?

しゃべり場メンバー(以下、S):あーそれね。良く言われるよ。結構本質的な部分を捉えているとは思うよ。なかなか答えられないもの、実は。それができないからこういう番組に出ているって答えてしまうかも知れない。

A:クラスの30人に向かっては言えないのに、何百万人と観ている番組を通してだと言えるってのは、意見の発し方として適切だと思うかい?

S:それを言うなら、1人の人に想いを伝えるのを、幾人もの人に見せ付ける必要性がどこにあるんだなんて話をしてしまうけれども。

A:まあまあ、そういうなよ。素人参加型ってとこにこの2番組の共通点があるわけだけど、素人が出てくる=ヤラセってのがこのテレビ界の定説で、どーせあんなの台本があるんでしょ、と物知り顔で言われるはめになる。まっ、言ってみれば自分と同じような人間が自分と明らかに違う世界へ出てくると、そこに粗探しを試みて、ほらねこいつらのやってることは作られてるんだと示したくなるらしい。嫉妬を必死に隠しているだけじゃんかと思うけども。

S:詳しくは後でと思ってるけど、ヤラセかそうでないかというのは、本来は枝葉末節であって、そこんとこをクリアすれば番組として優れている、そうでなければ劣っているという観方はいかがなものかと感じる。

A:本当に恋愛してるんですか? には、ええ本当に、と答えるし、本当に悩んでいるんですか? には本当に悩んでますと答えるんだろう。

S:ったく、青臭くてすみません(笑)。

A:しゃべり場に向かってこう言う人がいる。学校や社会に馴染めないという吐露を、学校以外の場所でするのは間違っていると。学校や職場なりでその不満を解消するべきなのに、そうではなく、ある場所にそれなりの憤怒を溜め込んで吐き出してくる。そこに意味はあるのかと問うんだ。これは視聴者が良く使う文言だけど、公共の電波を使ってこんな事やってどうする、という批評めいたものが湧き上がる。テレビの世界は玄人のモノという雑な印象論からテレビを語ろうとする人は多い。これはその中で有りがちな一例だよ。旅番組で旅館に行く。今日の旅館はどこかなーなんて言うと、もう一人がすぐ目の前の旅館を指差して、ここよここよ! なんてはしゃいでいる。ああいうお約束には寛大で、生っぽいものになると途端に厳しく見ようとする。玄人が演じるというのに一番甘く、玄人が意見するというのが次に甘く、素人が演じるというのはそれと同格で、素人が意見するというのにやたらうるさい。

S:新橋あたりで酔ったサラリーマンを捕まえて、小渕のバカヤローいつになったら景気は良くなるんだよっ、えー小渕じゃないのかよー、あー、あー、んだよ福田かよ福田だこんちくしょう、なーんて、素人にお決まりの意見を言わせても誰も文句言わないんだけど、輪になって、いじめってどうよと意見を戦わせた途端、どうよじゃねぇよって、水掛け論が始まる。

A:そもそも意見を発する存在として、認めてないようにしてるんだね。自分と同ラインにいる人間がブラウン管の中にいるって事実にそもそも文句がある。その事実を無理やり内容的に変換して茶々を入れているような気がするなあ。しっかし、テレビに対する考え方がアナログなんよね。

S:果たして地上波デジタル化で、変わるかどうか(笑)。

A:ハハハ、見えなくなるってオチでいいんじゃないか。

S:すみません、考え方がアナログでテレビが良く映らないんですけど。

A:電気屋で、そうですねお客様の考え方ですとちょっと…と申し訳なさそうに。

S:え、何とかならないのと食いついた所で、我に返る。

A:めんどくせぇな、それ(笑)。

反論してこない安全な相手の中で弱者を探し出すという、
批評としては最も無意味な事をやっているように見える。

S:あいのりにはヤラセ疑惑というのがつきものだよね。番組側も番組側で、わざわざヤラセじゃないんですと、検証までしてしまう。結婚すれば結婚したカップルを担ぎ出して本当に結婚しちゃったカップルもいるんですよと見せつける。これってどうなのか。あったりめーだろうよ、男と女が一緒に旅してれば恋人もなるだろうし結婚するだろうよ、と、投げやりな意見を誘発しているんじゃないか。

A:いやでもそうでしょうよ。結婚するってのは、ヤラセではないという証拠にならない?

S:それはならないよ。じゃあ、もっと微細について問われたらどうする? 告白しようってのに、前・後・横からカメラ3台に狙われて貴方はいつもどおり告白できますか? とか、ラブワゴンに乗って旅をしているのに、告白する時だけ遠く離れた場所から歩いてくるのは何でですか? とか、書いた日記を本人がナレーションしてますけどあれはいつ録ってるんですか? とか、突然呼び出したわりにベンチを狙うカメラがキチンと用意されているのは何でですか? とか。

A:鋭いねっていうか、やたら詳しいな(笑)。それは俺も旅の道中節々で感じていた事ではある。それは確かにそうなんだよ。異常性を排して何気ない恋愛を創出している感覚は、皆が持っている通り。だけども、創出をプロデュースしているのは、ディレクターではなく、自分自身である、というポジティブな自負がある。

S:そうか、どうりでナルシスト風の人が多いのか。

A:おいおい、それはお前らの番組にこそ言えることだろうよ。あれだけしっかり構えて悩みを言える人種を俺は他に知らないぜ!

S:その構え方を視聴者は嫌うんだよ。それをヤラセの粒、この場合の粒ってのはあくまでも参加している側からの感覚だけれども、その粒を膨らませて転嫁させて、構え方とかスタンスとかそういう言い方でまとめて非難する。

A:台本があるんでしょ、というより、どうせ台本みたいのに基づいてやってるんでしょ、と誤魔化しながらも、強く出てくるから厄介。

S:テレビへの非難って、自分は絶対安全圏なんだよね。元々大きなメディアであるというのと、その日の放送が終わってしまえばその対象は反論できないようになっているというこの2点によって実に安全。マスへ対する大雑把な論理が許容される所が、テレビや新聞って詰まらないんだよ、で済まされる雑なやり口に繋がるんだけども、そういう強者へ対するアバウトな論調が、相手が強者なだけに少しは機能するんじゃないかと思っちゃっている。そのくせ、その中から素人という自分と同質の弱者が出ている場を選んで、そこはおまえなんかが出て行く場所じゃねえと叱る。反論してこない安全な相手の中で弱者を探し出すという、批評としては最も無意味な事をやっているように見える。

A:あいのりやしゃべり場がどこまでも青臭ろうが、電波に乗った時点で一回きりの作品として完結する。こうなるとまな板に乗った鯉なんだよ。

S:恋愛してますとか悩んでますとかってのは、例えば友達と話す話題として考えたとき、最も大事に持ち出したい部分じゃないか。その持ち出し方があまりにもストレートで、馴染めないって感覚はあるだろう。だけども、それは批評ではない。合わない、という事に過ぎない。

A:そうだね。合わない、という程度の感触をそれなりの異論へ強制的に変化させていく逃げ技を批評と認めたくはないね。

(↓下記文字小さく。)

…と、とりあえずここまで書き終えたので、まあお茶でも飲むか。
まぁ、上記の対談は、「構成クレジット」として明記した「たけだ」が柿ピーを放り込みながらせっせと書いたもの。時間にして2時間いかない位で。もしもどこかで或いは全面的に、あいのりメンバーとしゃべり場メンバーが本当に話しているのだと感じたとするならば、書いた側としては嬉しい。この文章ってヤラセでしょ、と気付いていたとしても、もしかしたら本当かもってほんの少しは思ったっしょ、と突付く。

あらゆる発表物は、もしかしたら全て濃かれ薄かれヤラセを含んでいるのかもしれない、とつくづく感じる。テレビドラマであれ小説であれ、フィクションと前もって名付けられたものにさえ、そのフィクション性を考えた上で、「それは本当か?」と疑う。小説の背景にその作家を勝手に投影し、テレビドラマを見ればその配役に芸能界の力関係を探し出す。勘繰る、というのはすごくステキな知力だと思っているが、その勘繰る行為が批評に結びつくのだと知ると、批評を持つために何を勘繰ればいいのかと、逆から算段する。その対象として選ばれやすい存在は、悲しいかな、徹底的に叩かれるのだ。テレビ番組で言えばそれこそ「あいのり」であり「しゃべり場」であり、人という単位で言えば沢尻エリカであり朝青龍となる。あんなもん虚像である、という認証を対象の媒体力という腕力を借りて捻じ伏せたつもりになっている「つまらない試合」が目立つ。そのくせ、批評を単身で帰結させろと問えば、とりあえず匿名を守る。輪郭のハッキリしすぎた対象を敵として好み、それを不特定の中にいる透明な自分に馴染ませようとする。経路としてわざわざ面倒臭い。批評というのは、自由演技なのであって、だけども誰かの演技を見て噛んで飲み込んで、その演技を更に泳がせる難易度の高さがあるのだ。表現者が批評家なんていらねぇと言うのは、おまえらの手助けのための素材提供ではない、というプライドがあるからなのだろう。さて、その時に批評はどうするべきか、何をするべきか。これがよっく分からない。素材提供をされました、ではどうするのですか、に、こうするのですと答えていかないと、表現というフィールドの母体が液状化して把握できなくなってきている今、批評は次々と役割を問われては答えられずに息を止められていく。あいのりやしゃべり場がヤラセであろうがなかろうが、あれはあれで存在する(していた)。そこを、当事者という仮の口を持たせて語らせてみた。もしそこに少しでもリアリティを感じたとするならば、それは今ある批評に対して「いかに対象物と近くにいられているか」を測るという易い批評ゲームに貴方が慣れてしまっているという、残念なスタンスを吐露してしまっていたと言えるのではなかろうか。

(文:たけだひろかず)

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