CINRA.NET CINRA MAGAZINE CINRA RECORDS exPoP!!!!! CINRA MAGAZINE Volume17

「フジワラノリ化」論
−必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考−
第1回 渡辺満里奈

文:たけだひろかず

第1回ということもあり、連載の趣旨から説明しておこう。藤原紀香と結婚した陣内智則を指差し「格差婚」などと嘲笑し、その一方で、でも家に帰ったら藤原紀香がいるっていいーなと世の男子は陣内を羨ましがった、ということになっている。のだが、本当にそうだろうかと問い質したい気分が晴れない。藤原紀香というブランドを形成させるものは何なのだろうとしっかり考え込んでしまうと、彼女を形作る成分をひとつも例示できないとすぐさま気付く。さて彼女の代表作は何でしょう? に即答できる人はどれくらいいるのだろう。藤原紀香ってそういうものではない、という曖昧な断定が聞こえてくる。ではどういうものなのか。いやいや、そういうものなのだ、という不毛な議論が行き交う。藤原紀香というブランド(記号)はいつの間にか確立し、いつの間にか膨らみ、いつの間にか安定的になった。でも、少しばかり考えてしまうと、皆その存在に明確な意味合いを持たせる事が出来ずに何となく頷くに留まってしまう。それは、結果的に自由な泳ぎを許容したということなのである。こういう存在へ至った芸能人を「フジワラノリ化」と名付けることとした。なんでこの人こんなにテレビ出てるんだろう、必要以上に見かける気がするなあ、そんな対象を毎回入念に論じてみたい。はっきり言って誰もそこまで考え込まない人ばかりを取り上げる。だからこそ、この論考を決定版としてしまいたい意図もあり、とにかく長い。媒体の特質上、紙幅にとらわれずに済むゆえに書き散らす。散漫かもしれないが、この人でこんなに書いちゃってるという体感だけでもしてくれれば、フジワラノリ化で取り上げられた人物はほんの少しだけでも貴方の中で肉体化されたと言えるだろう。「なんとなく」だった人物が肉体化される、それができれば十分だ。

 

記念すべき第1回は渡辺満里奈を取り上げたい。藤原紀香がそうであるように、テレビでお見かけする機会は多かれど、何故この人が、という疑問を捻じ伏せる理由或いは有無を言わせぬ代表作をとりわけ持たぬままここまで来た人物である。キレイ・カワイイが、それだけで場が持つほどの度合いでもない。失礼な言い方だが、ブラウン管の中で彼女は「普通」を逸しない。しかし、渡辺満里奈はテレビに出るのである。ふとした瞬間につけたテレビに渡辺満里奈はよく映りこむのである。その度になぜこの人が、と問いかけるのだが、頭の中からもブラウン管からもそれっぽい回答は運ばれてこない。だからこそ渡辺満里奈だ、こういう妙な納得を今回ばかりはしたくない。渡辺満里奈という構造を解きほぐし、渡辺満里奈という存在がいかに総体として秀でているかを明示したい。フジワラノリ化の原因を探る、そしてその原因は、敗因なのか勝因なのか、渡辺満里奈のそもそもの部分へも議論を迫らせたい。

渡辺満里奈の補佐性、通気性
少し古くはなるが「おしゃれカンケイ」で古舘伊知郎の補佐、そして、「銭形金太郎」でネプチューンの補佐、「学校へ行こう!」でみのもんたの補佐。補佐と聞けば誰でも出来るアシスタント業務のようだが、補佐してきたメンツを挙げるだけで彼女の「補佐性」(という言葉は無いだろうけど)の非常さが分かる。誰とお近づきになれば上昇できるという分かりやすい世界では無いとは思う反面その分かりやすさがどこかで機能しているのだろうという易い読みもあって、この補佐というポジショニングは、女性芸能人にとっての最良のエレベーターに同乗したように見えてしまう。このエレベーターは、乗せてくださいという色目や、それなりの腕付けたのでそろそろなどという申告で動くものではない。手に入れるものではなく、手に入っていたものなのだ。戦略的に挑んで撃沈する所へ、ことごとく自然体で入っていったように見える渡辺満里奈に、何の要素が満ちていたというのだろう。

渡辺満里奈は通気性が良い。自分を全面に押し出すこと無く、司会者の隣にチョコッと居座る感じが、居心地の良さを視聴者に与える。今風に言う所のKY要素を清潔に排除する。かといって、空気を読む、という探索をしている気配は見受けられない。居心地の良さを持たせつつ、空気を無理やり読む位なら空気のように対象に溶けてしまおうという、消極的で低カロリーな立ち振る舞いが、持ち前の丸顔・ニコニコ顔に隠されて荒らされることなく機能している。尖ればそれなりに叩かれる、尖らなければ何も起こらない、それが選ばれた世界の住民に突きつけられる課題である。渡辺満里奈は、その課題の全く外にいる。しかし、ふと見やる渡辺満里奈は外ではなく中に、しかも限りなくど真ん中に近い中ほどで悠々と補佐をしているのである。これは「思っている以上に凄いこと」だ。この場合の「思っている」の主語は、視聴者であり渡辺満里奈自身でもある。この無自覚の勝利は見逃せない。

果たして無自覚なのかという議論も必要だろう。渡辺満里奈に対する見解、「なんであの人はあんなにも売れるのか」という論議は、これまでちょくちょくと試されている。だが、結論を導いたケースを知らない。3年ほど前になるが、亀和田武が「週刊文春」のコラムで、坂下千里子が出演した「おしゃれカンケイ」に触れ、そこから渡辺満里奈論を展開していた。「おいしいポジションは全部満里奈さんに持っていかれる」と騒ぐ坂下を、「トークの流れを寸断する余計な自己主張が無い」「『それ知ってます』と利口ぶらない」という満里奈要素を持ち出して、坂下にはそれが無い、と捌いている。しかし、コレだけでは決定的な満里奈要素を明言するまでには至らなかった。なぜならば、上記の「」は確かに渡辺満里奈に潜む要素ではあるものの、渡辺満里奈だけの要素とは考えにくい。ナンシー関は渡辺満里奈を「若い榊原郁恵」「ワンランク上の松居直美」と捉えたが、榊原を若くしても、松居をワンランク上にしても、それを渡辺満里奈とは想定しにくいのである。言うならば、渡辺満里奈的なポジションを例示したに過ぎないように思われたのである。「的」なポジションに当人はいないのだ。

渡辺満里奈のポジショニングは、まるでどじょうすくいのようだ。掴もうとするとヌルッと手から離れ、見つけた!と再チャレンジしても結果は同じ。渡辺満里奈はそこにいる。しかし、その場その場をこなしながら外の見物人には自分を掴ませないようにスルリと抜けていくもんだから、手にとって観察するのは難しい。そのどじょうすくいを「通気性の良さ」と変換してみよう。このキーワードから渡辺満里奈が見えてくるような気がしているのである。

「負け犬女」からサラリと逃避した渡辺満里奈
もうだいぶ前の流行という印象を持つだろうが、酒井順子「負け犬の遠吠え」は未婚・子ナシ・30代以上の女性を「負け犬」と定義付け、話題をさらった。彼女の言わんとしている主旨は、その定義に当てはまれば総じて「負け犬」なんだよ、キャリア構築してようが、金稼いでいようが、男に不自由がなかろうが、そんな差別化は全て「負け犬」の世界での話なのだという、ひっくるめた技に納得したのだった。ちょっと待って、エステにブランドバッグに海外旅行に惜しみなくお金を使ってエンジョイしている私達と、育児とパート勤務をこなしつつジャニーズを追っかけている出口の無いセンチメンタル主婦を同じにしないでよ、と論争を巻き起こす。しかし、論争はさほど盛り上がらず、そうではなく負けてるのは私達なのですよ、と論争を盛り上げる前にもうこちらから言ってしまう潔さに、この本の見事さがあった。この「負け犬」ブームで浮き彫りとなった人種が、このブームを利用して騒ぎ出した。「負け犬でぇ〜す」と香水撒き散らす生き方を世が認めてくれたのである。安易に芸能界に飛び火した。香水撒き散らす奴らの多い事多い事。渡辺満里奈は35歳になった05年にネプチューンの名倉との結婚を発表した。負け犬ブームがブームとしてそれなりに終息し、しかし負け犬世代はそのまま取り残されたデリケートな時期に、サラリと結婚を発表した。負け犬ブームの頃には33、4歳というドンピシャで負け犬世代だった彼女に、負け犬という冠を付ける流れは一切無かった。バッチリ負け犬ゾーンでありながらも己は負け犬にあらず。負け犬と共存はするが、共栄はしないのだ。その巧みさは解析しておく必要がある。具体例・持ちネタに触れていこう。

スローライフ雑誌「ku:nel」「リンカラン」的な場に住む渡辺満里奈
活況を一通り過ぎたかに思われるスローライフ雑誌だが、定着したとも言えるだろう。流行りは必ず廃るが、どれくらいの分母が残るかが次の争点である。となれば、このスローライフとやらの動きは大きな市場として仕上がったと見るべきだ。やれ有機野菜だ、やれ安眠枕だ、シンプルなそして自然なライフスタイルを追求する。夜更けに読書しながら飲むホットミルクティーが格別、という生き方。「負け犬の遠吠え」では触れられていなかったが、このスローライフのブームは負け犬が構造化したおかげで対岸に現れた「非負け犬」に重宝されている。雑誌のターゲットは30歳前後、正に渡辺満里奈世代。「ku:nel」の編集長はインタビュー(ダカーポ 2004/7/7)で「消費生活をある程度経験してきた人たちが、これからは自分の生活や内面に目を向けるようになるのでは、と想定し」たと述べている。「負け犬」が欲するのは外ヅラ対策と外モノ信仰だった。「勝ち犬=既婚者」は当然、内面(家族)で成り立っている。渡辺満里奈はスローライフの発端から定着に至る最中にいた人物である。その時期に、すなわち負け犬と呼ばれそうな年代期に、負け犬とは呼ばれずそのブームの沈静化と共に、(この表現は旧時代的だという自覚のもと使うが)結婚して仕上がった。スローライフという響きは、負け犬と呼ばれておかしくない人達を内面へと向かわせ、負け犬から逃避できる手段となり得たのだった。ここに渡辺満里奈がいた。だがもういない。またどじょうすくいをやられたのだ。

自分の持ちネタに普遍性を持たせる渡辺満里奈
渡辺満里奈を語る上で2冊の著書「甘露なごほうび」「満里奈の旅ぶくれ たわわ台湾」は欠かせない。前者はお食事コラム集、あそこの何たらがおいしい、ここは私の見つけた穴場です、って感じ。今読み返すととりわけ目新しさはないが、この既視感は後発で満里奈的なコラムが氾濫したからこその印象なのだろう。後者は文字通り台湾旅行記である。満里奈っぽさはこの「自分へのごほうび感覚」がきちんと外に受け入れられている点に集約される。酒井順子は「負け犬」が依存しやすいアイテムとして、「歌舞伎などの伝統芸能・フラメンコなどの踊り・パッチワークなどの手芸」を挙げていた。「一人旅はするな」とも付け加えていた。ともかく、この世代は(特に結婚していない女性・特に芸能人)は自分用のネタがなければやっていけない。手をつないで一緒にレッツゴーは20代まで、30代に入っても尚、お隣さんとご一緒しているようでは市場価値がないとされる。且つ、そこでのネタを外にも知ってもらう必要がある、そのアピールが評価に繋がるのだ。渡辺満里奈はこのチョイスが上手かった。加藤紀子のフランス、水野真紀のお菓子なんかが今になって振り返ってみると霞んで見えるが、その霞は本人達へも被さってしまったようで笑えない。渡辺満里奈は違う。芸能人の専売特許獲得大作戦は大抵「結局それってあんたに金と環境があるからじゃん」という揶揄を覆すことが出来ずに評価へとは至らない。加藤や水野がその例だ。だが、渡辺満里奈には「私達でもできる事を満里奈がやっている」という評価が下る。それは、非専門性・コスト安ゆえである。(高価でない)グルメと(大仰でない)旅行、息の長い普遍的なチョイスは、渡辺満里奈の安定を強固なものにした。

時代の「半歩先」「半歩後ろ」への冷徹な判断力
流行るということは廃るということである。その意識は誰しもが持っているつもりなのだが、いざ立場が上昇し、流行るという環境そのものに自分が置かれた場合において、これは廃るものなのだという常識が思い出せなくなってしまうらしい。自分がどこにいるのかという悩みを持たなくても良くなった途端に、どこへ向かうのかを失念してしまうという愚かさを、流行が廃って初めて自覚する。新しいもの好きである女性を相手にする女性、そして常に新しさが求められてしまうメディアとしてのテレビの特質、こう考えると「テレビの中で女性を相手にする女性」というポジションが最も移り変わりが激しいと予想できる。渡辺満里奈はそこに居続けているという事実を持ち出す。これはすごいことではないか。凡庸な言い方だが、単刀直入にすごいことなのだこれは。

グルメにしろ台湾にしろ、或いはピラティスにしろ、その半歩先を持ち運んでくるセンスは知られている。しかし、その見切りの良さも特筆すべき点だろう。普通、ひとつのコンテンツにこだわってしまうのである。ヨガをやったらずっとヨガをやってしまうのである。渡辺満里奈はそうではない。台湾が流行れば台湾を諦める。そこいらの女優がその手の女優への登竜門としてフードエッセイを書き散らそうものなら、もうそんなにやらずにおく。先駆者であるという宣言をしないのだ。先駆者という宣言は、一時の隆盛には機能するが、そうでなくなった途端に先駆者をも巻き添えにして溺れてしまう危険がある。渡辺満里奈はその危険を回避するために、持ち駒を捨て、新たな持ち駒を詮索するのだ。これはなかなかのギャンブラーのみ成せる技であろう。

そのおいしい役を狙う「ポスト満里奈」が渡辺満里奈になれないわけ
弱肉強食の世界で強権を行使せずに上の方で佇んでいる渡辺満里奈、この首が狙われないはずはないのだけれども、不足ある相手ばかりで渡辺満里奈には遠く及ばないここ数年であった。大御所と対等に張り合える環境を、自分で作り上げたのだと勘違いして司会業に励んでしまう佐藤藍子や石川亜沙美なんかは、所属している事務所の力学を排して考えてもプレッシャーの裏返しにある過度な統率意欲が目に付いたし、渡辺満里奈と同じ守備範囲の広さを持ちながらも、例えば登場する雑誌で考えれば「Hanako」「BOAO」という王道(=マガジンハウス)ではなく、「spring」「InRed」という拭えないマイナー感(=宝島社)がどうしても残ってしまうYOU。YOUには「姐さん」という呼び名が似合うとすれば、渡辺満里奈には「お姉さん」が似合う。渡辺満里奈は多くの人に「満里奈」と呼ばれるが、自分で「満里奈はねぇ〜」とは言わない。その点、いっつも自分から「千里はねぇ〜」と言ってしまうキャピキャピさが鼻につく坂下千里子はもう棲み場を失ったのだし、司会業からバラエティ、たまの女優業までそつなくこなしているのに、その何でも屋の印象が明確な個性を没したままどこかにフェイドアウトしていった白石美帆。村上龍の隣をこなす小池栄子も渡辺満里奈的ポジションを狙っているのではと勘繰るが、作り手も視聴者もどこかで前に前に出ていく小池を切望している感覚もあり、これは渡辺満里奈のような長命には繋がらないと読む。ザッと挙げただけでも満里奈化を狙う連中の多さ、同時に彼女達の弱さが確認できる。実際、突き詰めて考えてみれば「ポスト渡辺満里奈」というか「次世代満里奈」はベッキーのような存在も持ち上がってくる。10年後の渡辺満里奈という議論はまた別の機会に譲りたい。だが今の所、10年後の渡辺満里奈の位置には、渡辺満里奈がいるような気がする。

おやじ目線を拒まぬ満里奈、おばさんに微笑む満里奈
要は「息子の嫁」としての立ち振る舞いをみせている、ということである。「息子の嫁にしたいランキング」第1位は、ベッキーだという(2006年調べ)。ベッキー的な「息子の嫁」、水野真紀的な「お嫁さん」、この両者共に渡辺満里奈に属していると読めるだろう。「息子の嫁」をイメージさせる女性タレントは貴重である。これはやはり、生真面目な古館、エロオヤジみのもんた、芸術肌北野武と、クセのあるおやじに片っ端から溶け込んできた抗体からくるものだろう。露骨におやじ目線を感じたからといって別に網タイツを履く必要はないわけで、そのおやじと溶け合うことが、おやじにとって何よりの処方箋となるのである。厄介物として隅に置かれがちなおやじに向かって丁寧に振舞うことで、その態度が今度はおばさんに好かれる。おばさんに好かれるということは、女性という部分だけを武器にしてはいませんよ、と公認を頂く様なもの。おばさん獲得の場面で、亀和田武が挙げた渡辺満里奈要素「トークの流れを寸断する余計な自己主張が無い」「『それ知ってます』と利口ぶらない」が重要となる。これが出来ない嫁を姑は嫌うのである。安めぐみ辺り、延長線上には確実に渡辺満里奈がいる。

80年代アイドル連中から別離した渡辺満里奈
満里奈の主戦場は「大物の横」である。繰り返しになるがオイシイ。司会業が定着してきた彼女だが、別の側面からも見ておきたい。満里奈を考える上で、当然のごとく「おニャン子クラブ」の存在は外せない、というか、彼女の発祥なのである。テレビ「夕やけニャンニャン」からデビューし社会現象となったグループ、親しみやすい普通の女の子の集まりというスタンスは、それこそ秋元康がAKB48の形として再活用している。モーニング娘。がそうだったように、グループ活動からソロ活動に転身できる人気者だけが生き残る。渡辺満里奈は、工藤静香、渡辺美奈代、生稲晃子らと同じくソロでの活動を軌道に乗せた1人だ。フリッパーズ・ギターによる楽曲など、アイドル的でない楽曲も多い。

だが、言ってしまうならば80年代のあれやこれやは、渡辺満里奈にとってはもうどうでもいい歴史であり、その捨て去り方こそ強みなのである。現状、80年代に活躍したアイドルは、過去で食い繋ぐのが精一杯である。「酷な分刻みスケジュールで、今自分がどこにいるか分からないくらいだった」「もちろん、テレビ的には、彼氏はいません、って言ってたけど、実はいたのよね〜」など、聞き飽きたストーリーを自慢げに語る使用済み連中にはスーパーの売れ残りに貼られる値引きシールのような哀愁が漂う。テレビ側はその売れ残り感を群がらせて面白がっているだけであって、ハナから単体では難しいと判断している。ゆえに、何人か寄せ集めてパッケージで出すのである。当時の確執なんかで盛り上がらせとけ、というヤケクソである。このパッケージ戦略というのは80’sの悲しい性。渡辺満里奈を考えて欲しい。彼女が80年代アイドルの役回りでその他数名とテレビに出ている場面を見たことがあるだろうか。僕はない。数名の1人としてテレビに出る努力はいらないわけだが、意識的に拒んでいる感じがするのである。例えば、山瀬まみが司会をやろうが「ワイドショー講座」やろうが、どこか周辺の井森美幸あたりとパッケージ化されてしまうのに対し、渡辺満里奈の場合は、近場に80’sを寄せ付けないのである。これは本人というより背後の戦略なのかもしれないが、80’sから残存している「重たい商品」という事実をひたかくしにし、徹底的に離れることで成功しているのだ。

ママさんとしての視座
昨年末に渡辺満里奈は男児を出産した。渡辺満里奈がブラウン管から一時的に消えていたのはこのためだ。渡辺満里奈がいなくなる、というのは、もはやこういった不可抗力でしか有り得ないのだ。これだけの体制的安定を築いた彼女の職場復帰は近い。その復帰は分かりやすく大規模なものにはならないが、じんわりと渡辺満里奈という存在が再浸透するだろう。ママさんタレントというのは、その都度サイクルしていくポジションである。ちはるが石黒彩になり、石黒彩が千秋になった。ここ数年でも何回かの代表選考が行われている。「ママさん」が記号である以上、それは代替可能なのである。渡辺満里奈がママさんという視座を新たに持ち帰還する。とりあえず、ママさん市場は渡辺満里奈というブランディングにすがるだろう。そしてその結合はしばらくどころか長らく機能するんじゃないかと読む。この世界での備蓄を持つ彼女がこの段階で「ママさん」を持ち出してくる強さを同業は慄いていることだろう。彼女の本格復帰と思しき仕事は正にこの「ママさん」をフルに行使したものだ。『これが私の十月十日 妊婦道』なる妊娠・出産エッセイ、絵本『ありがとうターブゥ』、この2冊を刊行した。ここまでダイレクトな商法も、渡辺満里奈だから許される。この2冊によって彼女の再着火は約束されたと言っていい。その本自体が売れる売れないではないのだ。その本を出した彼女、という存在認識は、何よりも渡辺満里奈なるブランドを強固にしていくのだ。

渡辺満里奈論 まとめ
渡辺満里奈の事を嫌いな人はいるが、渡辺満里奈の事を嫌いな世代はいない、これこそ渡辺満里奈である。近年、テレビにしろ雑誌にしろ、マスを意識するメディアからターゲットメディアへと移行してきている。全員を相手にするより、ある世代・性別・所得層を露骨に意識してマーケティングしていくのだ。バラエティ番組が、FMが、女性誌がその好例。「F1層(女性“female”の20歳から34歳)を押さえておけ!」という、業界の常套句である。消費能力・宣伝力など、商品浸透するスピードがすさまじく早い世代である。現在37歳の渡辺満里奈、F1層生き抜いた代表という位置づけも嘘じゃない。かといって、F1層を代表する女性だったからここまでオイシイ仕事をしてこれたのか、という納得には、そうではないと声を荒げる。全く違うのである。ここで冒頭に挙げた出演番組を振り返って欲しい。「おしゃれカンケイ」「学校へ行こう!」「たけしの誰でもピカソ」「銭形金太郎」「どうぶつ奇想天外」、露骨なF1層狙いと言い切っていいのは「おしゃれカンケイ」くらいだった(テレビ番組はスタジオにいる一般客を見ればターゲットが読める)。

さて、どうゆう事か。ここで渡辺満里奈の「通気性の良さ」がポイントとなってくる。いくらターゲットメディアになったとはいえ、メディアが目指す方向はいつだってマスである。ターゲット→マスへの移行に、メディアの卓越した戦略が問われるのである。満里奈はターゲットメディアの開拓より、ターゲット→マスの移行に必要なのである。「おしゃれカンケイ」はむしろ例外だった。中高生向けの「学校へ行こう!」、アート肌の「たけしの誰でもピカソ」、F1層と同時にM1層(男の20歳〜34歳)を欲する「銭形金太郎」、家族で見られる「どうぶつ奇想天外」、番組が最初に狙う層と渡辺満里奈は必ずしも同じ層ではない。『だからこその渡辺満里奈』なのである。通気性の良さを番組にもたらすのだ。これらの起用が本当に番組の支持層拡大へ繋がっているのかは具体的な数字の考察が必要なので問いきれない部分はある。しかし、こうは感じる。メディアの人間が、今まで挙げてきたような渡辺満里奈の立ち振る舞いの絶妙具合を知っているからなのではないか。マイナスになる仕事をしない人である。渡辺満里奈を嫌う人はいても満里奈を嫌う世代は存在しない、この事実が渡辺満里奈をあそこまでオイシクさせているのである。渡辺満里奈を「何となく」見てはいけない。渡辺満里奈は、何かと巧みなのである。舞台の整った渡辺満里奈を凝視し、その巧みさを味わいたい。そしてその巧みさは常に「味わい続けられる」質であるに違いないのだ。

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