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「フジワラノリ化」論
−必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考−
第2回 中山秀征
文:たけだひろかず

前回は渡辺満里奈について徹底的に論じたが、まだ第2回ということもあり、まずは連載の趣旨を振り返っておく。藤原紀香と結婚した陣内智則を指差し、稼ぎ頭は奥さんだねと笑いつつ、でも紀香が家にいるなんてサイコーじゃんと羨ましがった、ということになっている。トップ女優とのまさかの結婚、何段もランクが上の芸能人と結婚できたのだという羨望である。しかし本当にそうだろうかというのがこの連載記事の発端だ。はっきり言おう、「藤原紀香ってそうでもないだろう」。彼女というブランドをつくりあげる要素とは何なのだろうかとその成分分析を試みた所で、これといった核になるモノ(ドラマ・映画・CM)は見つからない。藤原紀香というブランド(記号)はいつの間にか確立し、いつの間にか膨らみ、いつの間にか安定的になったのだ。いつの間にか安定的になったものを供給されると、人は何となく頷くに留まってしまう。しかしそれは、結果としては自由な泳ぎを許容したという認定作業なのである。こういう存在へ至った芸能人を「フジワラノリ化」と名付けることとした。なんでこの人こんなにテレビ出ているんだろう、必要以上に見かける気がするなあ、そんな対象を毎回入念に論じる連載である。渡辺満里奈がそうであったように、はっきり言って誰もそこまで考え込まない人ばかりを取り上げる。だからこそ、この論考を決定版としてしまいたい意図もあり、とにかく長い。この人でこんなに書いちゃってるという体感だけでもしてくれれば、「フジワラノリ化」論で取り上げられた人物は、ほんの少しだけでも貴方の中で肉体化されたと言えるだろう。「なんとなく」だった人物が肉体化される、それができれば十分だ。さて、長い前置きだったが、本題へ。中山秀征の話に移ろう。

なぜ今、中山秀征なのか? という根源

松山千春は自分のことを「超一流」と言う。客に向かって「素人」と言い、おまえらには持ち得ないとんでもない才能持っちゃってるから芸能人なのだ俺は、と毒づいてみせる。だけどそれって、毒づいているんでも何でもなくって、芸能界に鎮座するにはそれくらいの毒づきが確かに必要なのだろう。芸能界という世界が、一家に一台テレビが常設される時代になってから熟されたと考えると、この世界は自分らが思っているほど長いものではない。振り返って予想するに、テレビが出始めた頃の、そのテレビの中にいる人への羨望って、今じゃ考えられないほどのものだったろうと思う。そしてそこにはそれなりに素人とは違う「芸の能がある人」が映っていたのだとも思う。映画にしてもTVドラマにしても黎明期の作品が尊敬されやすいのは、こっちとは別の世界の人があっちでやっているんだという分かりやすい世界観の差が作品に反映されていたからなのだろう。

松山千春にしろ、矢沢永吉にしろ、カリスマ的な立ち振る舞いを純粋に披露する人達への目線は時として厳しい。何故か。それは、あちらにあったテレビがわざわざこっちに近付いてくる時代に在るからである。扱う内容は素人と同じ目線、芸能人はへりくだってあたかも隣にいるような親近感を心掛けるようになった。その連鎖がプライド無き同類番組の量産状態を生み、当人まで視聴者化した芸能人が機能するシステムとなった。インターネットがいくら物事をスリムにしようが広げようが、大衆というカテゴライズを主語にして考える際に、インターネットはまだまだ不相応な受け皿である。大衆という主語を考えると、テレビほど相応しい媒体は見当たらない。インターネットは細分化を迫られるが、テレビは未だに5つや6つ程度の選択肢で競っているのである。2人に1人がテレビをつけて、そのうちの3人に1人がそのチャンネルを見ている、この絶対数のデカさの異常は、テレビ以外には考えられないものだろう。

A地点にBという情報があったとする。これをC地点に届ける場合、そのC地点のどこにBを欲する人間がいるかを探し出し的確に届けるのがインターネットの役割である。インターネットの可能性という点でいえば、誰しもが常にBという情報にアクセスできる状態にあるという機会提供の容易さである。テレビはどうか。インターネット的な回路を目指してはいるものの、所詮、A地点にあるBという情報を上空からC地点に撒き散らしているに過ぎない。ヘリから農薬を撒き散らすアメリカ農法のように、地上にいるこちらの意向は考えてくれない。しかし、テレビ側もバカじゃない。ヘリから農薬を撒きつつも、あたかもそうではないように見せる技術を持っている。番組内に、素人とそんなに変わらない人間を投入させ、中心で機能させる。松山千春が司会をやるのではなく、何だかそこら辺にいそうなちょっと面白くて機転の利く人を画面の中に置いて、その人が松山千春と話をするという構図を作れば、アメリカ農法はあたかも良心的でへりくだった情報に見えるのである。明石家さんまは視聴者のことを「茶の間」と表現するが、その明確な遮断はこれからを考えるとやや危険である。その距離を縮める技法はますます限られていくからである。明石家さんまは対・芸能人でも対・素人でも笑いを増発させられるという点こそに唯一性があったのだが(これが島田紳助との違いである、彼は対・芸能人しかできない)、「恋のから騒ぎ」に代表される「素人相手のフィールド」での切れ味について、ここ最近徐々に失われてきているのではないかという不安がある。そういったフィールドでの、それこそ例えば「恋のから騒ぎ」であれば、隣にいる芸能人ゲストに頼りながら笑いを作り出す機会が異様に多くなったと感じるのである。明石家さんまがへりくだって「さんまちゃんがさー」と素人目線に降りるパターン芸が、正に「降りる=撒き散らす」として見受けられてしまうのだ。明石家さんまの好感度が下がっていると聞く。これは好感度ではなく、「機能性の低減」なのだと読む。

アメリカ農法の打開策は、先ほど述べたとおり、素人とそんなに変わらない人間を投入させ、中心で機能させることを心掛けるしかない。素人的芸能人の投入は、ネット的なピンポイントを創出できなくとも「近さ」を印象付けるにはもってこいの存在である。かつて、故・ナンシー関は中山秀征を「生ぬるバラエティの申し子」と言い切った。実に見事な位置づけである。しかし、今この地点での彼はどうだろう。生ぬるいバラエティに出まくっているのは相変わらずだが、視聴者からの視点は少し変容してきているのではないか。ポジショニングを緻密に練る人物とは思えない。むしろ、「いつのまにか」の連鎖が状態としての巧妙さを作り上げているようにみえる。視聴者との距離というテレビ界にとっての最重要課題を考えれば考えるほど、これからも中山秀征の起用は安定的だろう。「なぜ今、中山秀征なのか?」と掲げたが、その「?」に応える「!」というやり取りを求められないからこその中山秀征なのである。論としては逃げているかのようだが、ただそこに居続ける人物を押し引きする必要はないのである。

中山秀征は面白いのか? 

テレビでのメイン業務が「ラジかるッ」や「ウチくる!?」といった司会業である所から考えてみても、そもそも面白さを求められるポジションにいるのかどうかという議論もあるだろう。しかし、彼が笑いを狙うというか、笑いを掴み取ろうと試みてくるのは、彼の出演番組を観ればすぐに分かること。ならば、彼は面白いのかという議論も必要になってくるだろう。状況把握をおろそかにせず、笑いを掴み取らねばならないというハイセンスが彼に備わっているかどうか。ここで、タモリは、さんまは、と比較対象に持ち出すのは間違いである。彼らの場合、司会=冠番組であり、あれはタモリに基づく世界、さんま統治社会なのだ。「中山秀征の○○」ではない、冠ではない番組の司会進行として笑いを含ませていく難儀に、中山秀征は打ち勝っている、と個人的には評してみる。「うちくる!?」が顕著である。ゲストが主役、ゲストの一方的が許される環境下で中山秀征に求められるのは、あちらの用意されたトークなりを何気なく引き出してキッチリ収めることである。彼はその話中に毒を染み込ませようとする。果敢に、である。相方の久保純子がどこか間の抜けたキャラクターだからという対比も大きい。話を思いも寄らぬ方向に飛ばし散らす。その拡散した話を、毒素を盛り込みながら締めくくるのが中山秀征なのである。ここに、技量を覚える。放言して話を拡散させた久保にチャッカリ乗っかりシッカリ決着させることで話を元に戻していく荒業、ここに笑いが生まれるのだ。

タモリやさんまでは、この手の番組は成り立たない。ゲストはその大御所に合わせるに違いないからである。大御所が常にやっている文脈に乗ろうとするのである。「メレンゲの気持ち」の久本雅美であっても、やはりゲストは彼女に合わせているのである。調理人は彼女であって、ゲストは出された食事に手を付けているだけである。中山秀征は逆である。ゲストに食事を作らせるのだ。この点で「おしゃれイズム」のくりぃむしちゅー・上田晋也も同じ技法を持っている。しかし、上田のそれはツッコミである。話をさせて突っ込む、遮断して次の話をさせる。これはこれでプロである。そう、プロである。しかし、これからはプロであってはならないのではないかという定義をした。中山秀征は自身に「主食」という感じが無い。ご飯でもないし、メインのおかずでもない。しかし、前菜でもお惣菜でもない、サブメインのおかず、くらいの感じがするのだ。だからこそメインが映える。具体的にトークの中でいえば、主役を殺さず用意された導線へ笑いを含ませながら引っ張っていく。上田には藤木直人や森泉が必要だろう。ゲストに対して突っ込めない状態であれば、そっちを突っ込めば場が持つからである。中山秀征には必要ない。久保純子が口火を切ってくれれば後は中山秀征一人で操縦できるのだ。彼自身が面白いか否か、とは議論の軸がずれてしまったが、相手を面白く魅せるという技法において、彼に敵う者はなかなかいない。

中山秀征の対人料理法

だからといって、彼を面白いとまとめる気はない。1人になって1から笑いを創出しようとした時のパーセンテージの低さは、今は亡き「夜もヒッパレ」で明らかにされていたように思う。あの番組での中山秀征はサブであり、司会の三宅裕司に「おい、ヒデちゃん」と振られるまで待たねばならない状況にあった。三宅からようやく振られた中山秀征の空回りは番組の風物詩のようになっていたが(ヒデちゃんがまたサブいこと言ってるよアハハ、といった類いの)、単体で残され待たされた中山秀征の不発は、司会業として相手を引っ張り出す彼の技量と比較すると、どうにも同じ人物に見えなかったものである。笑いの起爆剤としての力が彼には無い。お笑い芸人の笑いの作り方を面白いとするならば、中山秀征は面白くないと評されるべきだろう。代わりに、先ほども申し上げたが、司会進行に一定量の笑いを含ませる力には長けている。対人料理法とでもいうべきか、素材(相手)が偉かろうが若かろうがテンポ良く料理し、素材が望む完成まで的確に持ち込む料理法はなかなか真似できぬものだ。中山秀征が何故生き延びているのかという疑問に対し、一時期同類項にまとめられていた森脇健児の衰退を挙げ、彼は消え去ったのに中山秀征はなぜ生き残っているのかという物言いが成されている。相手が古い、余りにも古い。森脇にも「夢がMORIMORI」という看板番組があったが、あそこでの彼は対人ごとに料理法を変化させることをしなかった。できなかった、のかもしれない。これまた消え去った山田邦子が絶頂期にみせた自己チュー司会っぷりを追随してしまったから、彼は消えたのではないか。中山秀征の長寿を考える時に、あいつ面白くないじゃんではなく、対人を料理する上手さをまず考えねばならない。そこでのテーマは中山秀征に潜む「日本企業的精神」である。

日本企業的精神を持つ中山秀征

芸能界という世界はどうやら上下関係のハッキリした世界のようで、和田アキ子が何年間ヒット曲を出していなくとも、もうこの時点から年末の紅白歌合戦には内定が出ているに違いないのである。それは和田アキ子ってもうそういう位置にいるからさ、という理由以外は見当たらないのであって、この世界に何年いるんだいという経歴が、具体的に画面から発動し機能するのである。立ち回りを間違えると、消えはしないが身動きが取りづらくなる。中山秀征という人物はそこら辺の立ち回りを巧みに行う人物である。年上には年上の対応をするし、年下には年下の対応をする。しかし、それだけでは褒められるには値しない。繰り返すがそんなもんは当たり前だからである。それはただ「体育会系」なだけである。中山秀征はそうではない。日本企業的なのである。

もっと言えば、中山秀征は「社員旅行の宴会の司会兼幹事」なのである。これは我ながら的確な表現だと思っている。そこにいる相手を引き立てる、全員のバランスを見渡しながら、要領良く振り分けていく。それでいて、盛り上がっているかいないかを見極めて場合によっては、自分でその盛り上がり自体を築き上げていく。社長の挨拶から、役員の乾杯挨拶から、宴会好きの先輩の機嫌から、新米の出し物まで、全てを取り持っていく構成力があるのだ。どんな種類にも対応する。こいつに任せておけば大丈夫だろうという全体からの安心感、どんな会社にもそういうキーパーソンがいるものだが、芸能界におけるそのポジションが中山秀征なのである。芸能界という巨大企業、この功績はもっと丁寧に賞賛されるべきだろう。青木さやかやユースケ・サンタマリアのような、適当さと暴言を売りにする存在に対して、もしかしたら中山秀征的という評価が下っているのかもしれないが、青木やユースケには、「でも実際はイイ人なんでしょ」という免罪符がいつでもどこでもブラざがっている甘さがある。しかし、中山秀征にはそういった前提や隠しコマがない。壇上に上がって色んな立場からヤイヤイ言われる宴会の司会者のように、彼は場の荒れを整理整頓して、次の題目に進行させていくのだ。

中山秀征の下ネタ活用

これは男子としての怒りだが、福山雅治がいくらラジオで下ネタ振りまいてもそれはアリとされるのに、油ギッシュな上司が「おっ、今日はキレイだねぇ」と声かけたらそれはセクハラにあたるのだ。この不公平感ってどうにかできないのだろうかと思うがどうにもできないのだろう。そりゃあ福山さんとあの上司なんて比べ物にならないわよという言い分なのだろうが、私が言いたいのは、その上司の下ネタを認めてやってくれ、ではなく、福山の下ネタも認めるなよ、という話なのである。

中山秀征はラジオや深夜枠では積極的に下ネタを使う。「ウィキペディア」には「エロトークで男子中高生のファン層を広げている」とあるが、「中高生のファン層」とは怪しい。深夜枠やラジオでの下ネタは、表の顔に対する裏の顔の記号として持ち込みやすい素材である。中山秀征も例外ではないと思いきや、もしかしたら彼にとっては、1から笑いを創出できない弱さの代替物として用いようとする道具なのかもそれない。裏の顔としてではなく、表でも要所で下ネタをちらつかせ、1人での笑い作りに励む場面も見受けられる。その狙いが何だかんだの結果として本当に中高生の人気に繋がっているのだとすれば彼的には儲けもんだろうが、対人料理法を褒め称えた側としては、この下ネタ使いを手放しでは歓迎できない。福山的な下ネタのアプローチが福山限定であると、こういう被害者を生み出すのである。

中山秀征の喜怒哀楽

司会業に徹するとは、場に整合性を保たせなければならないという職務を持つ。簡単に言えば、場違いな行動が許されない立場だということ。司会といってもニュースキャスターならば冷静沈着という低い温度をベースにして嬉しい話題の時だけニヤリとすればいいが、中山秀征が担当するような番組、(本人はそうは言わないだろうが)「生ぬるバラエティ」をどう仕切るかは非常な難しさが伴う。中山秀征を面白くないと真っ先に断ずる人は胸に手を当ててもらいたいのだが、それはもしかしたら番組自体がどうしようもなくつまらないものではなかっただろうか。「タイムショック21」や「TVおじゃマンボウ」、あるいは改変期の2時間SPもの、こういった番組に宛がわれてしまう中山秀征に問題がないとはいえないが、この手の番組を見て真っ先に中山秀征を断ずるのは酷である。ポジティブに考えて、じゃあ、そんな生ぬるバラエティを他の誰が仕切れるだろうか、中山秀征くらいのものではなかろうかと、考えてみてはくれまいか。

中山秀征は、喜怒哀楽でいうならば「喜」と「哀」が強い。バラエティの司会だとどうしても「怒」と「楽」が強くなる。島田紳助、ダウンタウン、明石家さんま、、、関西系のお笑いが司会業に向いているのは、流れをパッと遮断するトーク力にあるのだろう。中山秀征に、そのテクニックは無い。怒(ツッコミ)を基軸としてヘラヘラ楽しんでみるお笑い芸人的なセンスではなく、平和的な進行を守る。前述したように節々に毒を忍び込ませるのだが、それが一線に晒されることはない。注意観察のいらない生ぬるバラエティには妄信するかのように喜ばしい温度が流れているが、この場に中山秀征はフィットする。日本のテレビが相変わらずこういった温度を好む以上、中山秀征の喜の温度作りは巧妙な才能と評されるべきだろう。「TVのチカラ」などで見せていた「哀」も上手い。深刻な顔でありながらどこか我知らずという非・徳光的な冷静な哀しみ方は、進行上の妨げになる可能性が無いがゆえに重宝される。中山秀征が使い勝手がよいとされるのもココらへんにその一因が隠れていそうである。徳光的な涙を非・徳光がやって見せた所で、それは使えないのだ。中山秀征はそれを知っている。

中山秀征と峰竜太との比較考査

中山秀征は、およそ司会業というカテゴリーではもっとも価値水準の高いであろう日テレの午前枠で「ラジかるッ」という番組の司会を務めている。それまで、日テレの午前といえば「ザ!情報ツウ」の峰竜太であった。この峰竜太から中山秀征への変移を今一度大袈裟に考えてみたい。峰竜太があまり好きではないのだが、なぜかといえば、自分のことを絶対に悪く言わないからである。周りの人間を積極的にイジるくせにそれが自分に戻ってくるとその段階で冷淡に断ち切り、いきなり司会業に徹しちゃったり、自分は結構なベテランであるという立場を露骨に行使したりする。常日頃突っ込む相手が和田アキ子といった大物だったりするが故にそれなりの評価もされがちなのだが、彼が突っ込む大物の対象って、出来レースと言って間違いの無い安全パイな関係性の時だけだ。中山秀征も峰もやたらと「当たり障りないことばかり言う」と嫌われる。確かにその毛色は両人にあるものの、あくまでも個人的としながらも、この2人には実力差を感じてしまう。峰はワイドショーの司会を務めていたわけだが、まぁ要するに小倉智昭との一線の画し方ということだったのだろうが、私論を挟みつつも公平中立へ絶対に落ち着かせるという帰着点への意識的な舵取りが鼻に付いてしまっていた。こう書いていて思うのだが、多分、峰竜太に関しては「真面目に語っちゃいけない」のだろう。語られないことが自身の生命線でもあるような気すらしてくる。一方、中山秀征は、「目に見えない形=なんとなく」でありきたりな帰着へ持っていく。同じようだが同じじゃない、この差は大きいのだ。何となく中山秀征に触れている人はこの思いを強く持っていることだろう(あるいはこう聞かされることで気付くだろう)。みのもんたや小倉といったアクの強さで勝負しないとなれば、中山秀征はベストな人選であろう。

ポスト中山秀征はありえるのか?

中山秀征を「社員旅行の宴会の司会兼幹事」とした。あらゆる芸能人が盛者必衰だとするならば、このポジションの次を担う人材は出てきているのだろうかという議論もしておきたい。ここで挙げる人物は2人、「ビビる大木」と「土田晃之」である。

「ビビる大木」は中山秀征が司会を務める「ウチくる!?」の1コーナーを担当しているが、その1コーナーでのこなし方が、中山秀征のそれと似ているのである。話し相手の望む所へ持ち込む技量、しかも1コーナーでの短い持ち時間の間に完結させる、(言葉としては矛盾するが)繊細な大胆さが見受けられる。司会者として登場する機会は無いが、全体の流れと、全体の流れから自分の位置を読むしたたかさが光る。ちょっとした毒素を撒いて、その毒素への反応から話を広げていく様は中山秀征的である。

「土田晃之」は、今もっとも「ハズレ」の少ない芸能人ではないかと読む。そこにいる誰よりも前に出て自分のネタをオッパッピーとやるような芸人ブームの中にあって、極めて冷静沈着な対応を心掛ける。それがある種の毒舌として結実してくるわけだが、純粋に土田の動きと発言を追っていると、彼がその番組進行の方向性を担っている場面が多いのだ。先輩芸人が「それはAでしょ」と言う。土田はその先輩芸人に「いや、Aじゃないよ」と言う。恐れ多いように見えるが、恐れ多くは無い。実はその先輩を引き立てているからだ。だからこそ、「いや、Aじゃないよ」と毒づいた後に、何かしら自分と毒づいた先輩との距離確認を見せつけてしまうのだ。土田はそういうベタつきを嫌う。かといって「Bだよ、それは」とも言わない。「いや、Aじゃないよ」の後に何も言わない。「で、何?」という顔で、その進行を次のステップへ持ち込むのだ。土田に関しては紙幅を要するので別の機会に譲りたいが、出演者をブッキングするプロデューサーなりが「うん、あいつを出しておけば安心だろう」という救援投手のような役割で認められているに違いない。その「問題の無さ」が実に「中山秀征的」である。ポスト中山秀征を判断するには、彼の主な職が司会業である以上、その立場での比較となる。ゆえに予想でしか有り得ないのだが、ビビる大木と土田晃之は、その可能性を大いに含んでいる。

中山秀征論 まとめ

さて、いい加減まとめに入らなければならない。
その前に彼に対して苦言を呈してみるのもいいだろう。彼に苦言を呈するとするならば、新規開拓能力の稚拙さという部分は問われるべきだと感じる。かつて、ボウリングのプロを目指し、ゴルフの腕を鳴らし、「夜もヒッパレ」では歌の上手い部類での登場をし…と、これがまあ、全てあまり宜しくないのであった。仕上がった職種に就く中山秀征に更なるプラスアルファを真剣に求めている人もなかなか居なかろうとは思うが、問われた時にパッと小出しに出来る新味が無いのはやはり痛いのではないかという余計な心配をしている。これが勝俣州和ならば問題は無いのだ。彼のように突っ込まれてから発動するのを信条とするタイプには、実は受け身としての気軽さが潜んでいる。中山秀征にはその受け身態勢は無い。プライドがあるのだろう。それ相応のポジションでジッとしていれば、ちょっとしたプラスアルファを定期的に求められてしまうという展開はありえる。定期更新時に成される中山秀征への評価がネガティブなものになりかねない。小さくて良いのだ、プラスアルファ開拓に新しさを期待したい。

彼はテレビに居続けられるだろうか? との問いへの答えは、「YES」の即答である。中山秀征は放っておいても今までと同じ生き延び方をするだろう。それは、ここから先、日本のテレビと中山秀征の温度がそうはブレないだろうとの確信に基づく読みから来る。中山秀征を見かける場面として「今日のゲストは中山秀征さんです!」という場面は少ない。番組にやってくるのではなく、番組に付随しているはずだ。しかしそれは中山秀征の名を掲げた冠番組でもなければ、どうしても中山秀征が居なければ成り立たないという番組でもない(当然だがラジオは除く)。前半部に記したが、あちらにあったテレビがこっちにわざわざ近付いてくる時代になったのだ、これが今の日本のテレビの進行方向なのである。テレビのこの進行方向は、ネットなどで情報が混在し取捨選択できる状態においてこそ益々変わらないだろう。こっちから手の届く距離、これをテレビがひたすら意識するようになる。この距離感へ導いて、その距離感をどう保つか、そのためにそこにいる普通の芸能人(=アイドルのような、ファンの熱狂具合に左右されない芸能人を指す)は能動的でありすぎてもウザいし、受け身すぎても、こちらからは手を伸ばそうとはしないだろう。能動も受け身も「プチ」であり続けること、そつがないポジショニングが生き延びる効果的な作法なのだ。自身で心得ているかは知らないが、中山秀征はそのポジションへのフィット具合が格別なのである。気付けばヒデちゃん、なぜかここにもヒデちゃん、という時代がしばらく続くだろう。彼がこの堅実なポジショニングのプラスアルファとしてズル賢さを覚えたら、中山秀征の頻出度はさらに上がるだろう。だが彼がそうするとは思えないし、もしそうしたとしたら今度は彼の寿命は急速に短くなるのかもしれない。それを多少ならずとも感じているから、彼はそうしない。いやはや、中山秀征は知らず知らず巧妙である。彼がテレビから消えることは、まず無いだろう。時代が中山秀征の席を用意して、その席に座れる人物を中山秀征以外に探し出せないのである。

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