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これぞ最強 感動の1文を探せ
読書家6名が選ぶ、小説6冊

 

読むのはたしかに億劫だけど、一緒に過ごした時間が長いから、「小説」が与えてくれた感動は心に残り続けている。
読書好きの6人が厳選してお届けする「心に残った感動の1文」。どうせヒマをつぶすのなら、本当の感動を味わってみるのも悪くないかも。

 

伊坂幸太郎『重力ピエロ』
2003年 新潮社

 

本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ。

実際、重たい人が重いことを言っても、「大変だねぇ」「うんうん、よくやってるよ」くらいにしか思わない。重たいモノを抱えている人が元気に笑ってみせると、うっかり涙腺がゆるんでしまったり、深く同情したりしてしまうのがギャップってやつで、たぶん、そんな人は、男女問わず好かれやすい。
「重いものを背負いながら、タップを踏むように。」と続くこの一節は、深い悩みをひきずりながらも、軽やかに生きてみせる弟、春の一言だ。実際、だいぶモテる。歯切れの良いエンターテインメント満載な伊坂流物語には、こんな具合に要所要所で突き刺さるメッセージがいつも仕込まれている。もう面倒なことは御免だし、重たいものはいらない。ピエロみたいに軽いくせして、ちょこちょこひっかかるから、うっかりハマっちゃう。ずるいけど、それって意外に難しい。(杉浦太一)

 

高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』
2004年4月 講談社文芸文庫
(単行本は1985年に角川書店より発行。現在は絶版)

<引用ここから>
書くべきことはわかっていた。
それは、奇妙なものでなければならなかった。考えうる限りバカバカしいものでなければならなかった。最低のもの、唾棄されるようなもの、いい加減なものでなければならなかった。(P211 作者あとがきより)
<引用ここまで>

<レビュー>
唐突かつ理由もなく、無性に「救われたい」と思ったことはないだろうか。深夜mixiにイタい日記を書いた時のテンションが日中も続くあの感じ。この作品はある精神病患者(のような人)が風俗嬢とのハートフルなセックスで「救済」されるだけの物語だ。作者の宣言通り話の脈絡は終始ほぼゼロ、登場人物の名前も「すばらしい日本の戦争」や「資本論おじいちゃん」といった具合に滅茶苦茶な物語だ。しかし、かつてのロックンロールがそうであったように、ドン詰まりの日常に一筋の光を照らしてくれるのは、良識と退廃を天秤にかけてギリギリのラインでシーソーゲームに興じる、そうした無軌道さだったりしたはずだ。「毎日退屈で仕方ない」だとか「自分はこのまま死んでいくのかなあ」なんて愚痴る前にもう少し滅茶苦茶やっていいんじゃないかと思う。その先に後悔しかなかったとしても、それから自分が何を選びとるかだ。多分そこからしか「救済」はやってこない。

 

 

 

 

『田紳有楽 空気頭』藤枝静男著 
講談社文芸文庫 1990年6月

自分がB子からも、糞尿からも、すべてのこれまでの煩わしい苦悩から、まったく解放されているのを信ずることができました。(p.246)

「私はこれから私の『私小説』を書いてみたいと思う」。この作品はいきなりメタな視点から始まる。結核に冒されて気胸療法を受ける妻。まめまめしくその看護にあたる夫は、実はその陰で有り余る性欲に悩まされ、女たちと情交を続けている。その衝動に襲われるときに決まって出現するのが視野の上半分が失われる「上半盲」という現象だ。不能を恐れる夫は人糞ベースの強精薬「金汁」を作り、上半盲状態をキープし続けるが、あるとき愛人B子の経営するバーで偶然「広い店内を斜め上から俯瞰」するという臨死体験に似た経験をし、悟りの境地に至る。冒頭に掲げたのは、その時の感動が溢れる一文だ。夫はこの境地を再現するため、「気頭療法」という珍妙な治療法を開発する。色欲や自己嫌悪に振り回され続ける人間という存在は、なんてバカバカしくもいとおしいのだろう。白樺派には書けないハイパーリアルな私小説だ。(松本摂)

 

角田光代『空中庭園』
2002年11月文藝春秋

―なんていうのか、その光景が、完璧に思えたのだった。…中略…この光景の完璧さにくらべたら、なんとちっぽけでみみっちくてつまらないことか。

小さな子供達が、澄んだ笑い声をあげながら楽しそうにぴょこぴょこと歩く姿。注意しながらも、後ろから見守る母親。家族で歩く動物園。想像するだけでほほえましい光景は、日常の幸せとして点数をつけるならきっと100点。冒頭の一文は、自分達で作り出したその光景を、思い返している父親の言葉である。『空中庭園』は、郊外の団地に住む4人家族と母方の祖母、父親の愛人の6人それぞれの視点からみた、家族にまつわる話。彼らは一見幸せそうな家族だが、実は崩壊している。しかし、そんな家族にも幸せなことはあったのだ。どんなにささいなことでも、もう覚えていなくても。ふと、幸せだと思える瞬間があるのは、それだけで素晴らしい。暗く、虚無にあふれた作品だが、私達が日々の慌ただしさなどでつい蔑ろにしてしまう、身近な幸せを思い出させてくれる。当たり前のように存在し、近すぎる為に見落としがちな《家族》。実際、理想的な家族って少なくて、事の大小は置いておくとしても、何かしら問題があったりするんじゃないだろうか?某TV番組ではないけれど、幸せってなんだっけ?と思っている人は読んでみて欲しい。

 

 

■小説タイトル/作家名/発行年/出版社
春日武彦『僕たちは池を食べた』/2006/河出書房新社

■感動した1文引用 (引用した箇所=ページ数も)
「日曜の午後、二杯目の紅茶が注がれ、(中略)僕たちは向かい合って語り、
紅茶を飲み、そして池を食べた」=(p 25)

 

■レビュー 360〜400文字
精神科医カスガが出会う、ちょっと変わった人間たちと、その物語を紡ぐカスガ夫妻の日
常の一コマがいい。二人は、池をイメージした緑色のケーキをほおばりながら、その「池」を想像する。周りの草木、水面の波紋、中を泳ぐ魚たち。同じように、カスガが出会った
人や、日常の些細な出来事にも思いを馳せてみる。失恋がきっかけである朝突然声が出な
くなった女の子、自分は「ひと味違う」というプライドの高い女。いろんな人間が存在し
ていることや、人の数だけの人生があって、それらが繋がり合って世界ができていること
の面白さに気づく一冊である。
まるで自分一人で生きていると勘違いしがちな現代。欲しい情報だけでいっぱいになった
頭でっかちの現代人が独りよがりになる前に、ほんの少しだけ、目に見えるものの裏側に
想像力を働かせてみる、そして誰かと語り合ってみる。世界は、もっと楽しくなると思う。

 

■クレジット
早川すみれ(sumirehayakawa.com)

 

保坂和志『季節の記憶』
1996年8月
講談社

「ねえ、パパ、時間って、どういうの?」

日常に特別な出来事というものは無い。日常に起こることの全てはありふれた出来事である。ある朝目が覚めると自分が巨大な虫に変わっているのを発見するなんてことは無いのであって、だからこそ人間の想像力というものは面白いのではないだろうか。その巨大な虫が何であるという答えが必要なのでは無く、その小説そのもの、或はその小説について考えられた全ての足跡が想像力なのだ。つまり、日常において特別なものとは、出来事ではなく、頭の中にのみ起こりうる現象を指すのである。
この「季節の記憶」という小説のなかには、出来事らしい出来事がほとんど描かれない。日常の風景を心象とともに正確に描き出しているだけである。しかし、ここには想像力というものがどういうものであるかが、強烈に描かれている。安っぽい物語とは違う、生きる人間としての強度が描かれている。「ねえ、パパ、時間って、どういうの?」あなたなら、この問いに何と答えるだろうか。

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