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夜更けに、観たくもないDA PUMPを観るということ。

(文:たけだひろかず)

 

深夜番組は、「内容」ではなく「環境」である。内容があって環境が与えられるのではなくて、先に環境があってそこにふさわしい内容が後から与えられるのである。作り手はまずその順序で番組を定めていく。となれば観る方もその順序に倣いたい。「何故、深夜番組を観るのか」というようなイントロがあるとして、それは○○だからと宣言し、長々と議論が続くとする。その議論はおそらく「考えすぎ」である。深夜番組の効能を誇大化しすぎている。ゴールデンへの道が如実に視聴者へ示されがちな昨今の深夜番組だが、その申告によって、「あの番組はさ、深夜の時は神がかっていたけど、ゴールデンになったらダメになったよね」という、フォーマットに押し込められた視聴者の平凡な評論が群がる。それにより、青田買いじゃないけども、ゴールデンへの駆り出しが甘くなる。構造として似ているのはテレビドラマで、脚本家をたてて新たな脚本を作るのが面倒になった制作側は、とりあえず流行りの小説を片っ端からあたって、これはドラマに出来ないかとドラマ化を模索する。小説が必ずしも脚本的ではないように、深夜番組は必ずしもゴールデン番組的ではないのであって、ここを議論の中心にしてしまってはならない。「これは深夜じゃなくても」でも、「これは深夜じゃなくちゃ」でもない。

何故、深夜番組を観るのか、の正しい答えは、深夜にテレビを付けたから、という面白くも何ともない答えが正解である。深夜という特異性に着色なり足し算なりをしてみても、それは対ゴールデンの何がしかとして表出してしまう。その番組ごとの評論はもちろん必要ではある。その評論を戦わせて深夜番組とは何かを見据えれば、深夜に供給される質感は変容してくるかもしれない。その評論の意味も認めてはいる。

エロの供給が枯渇している現在の深夜である。おっぱいが出て来ない。11時過ぎからおっぱいを出してみせた「特命係長 只野仁」は、「深夜×おっぱい」という根元的な需要を如実に具現化させた番組だった。真面目な顔で書くのが恥ずかしいくらいだが、おっぱいが出ていればそれでイイのである。いつ出るか、出るか、あれ出ないのか、いやいや、やっぱり出たぁぁぁ、という純度の高い興奮である。深夜番組の意義として、分かりやすい見え方だった。

TBSの深夜枠に「ワンダフル」という情報番組があった(番組開始は97年9月・終了は02年9月)。深夜版・王様のブランチとでも言っておけば説明は早いが、キュートな女子大生(くらいの年代イメージ)を集わせてキャッチーな情報をインフォーメションするという、「軽さ」がある種の肝となっている番組であった。東幹久、原千晶、立河宣子、白石美帆、名前を並べるだけでもその軽さが節々から滲み出てくるが、その軽さをまず視聴者が求めていくような番組だった。テンションは高い、それだけでいいのである。王様のブランチは土曜の午前という休日の幕開けを、ただただ高いテンションで迎えさせてくれる清々しい理解の上に成り立っている番組である。最新スイーツでワァーキャー言ってくれればそれでいいのだ。ワンダフルは平日深夜でありながら、そういうワァーキャーを番組の間中流していた。考え方がキャバクラなのである。「きれいどころをそろえる」という、実にオヤジ臭のする宜しくない言葉があるが、それをそのまま体現してワァーキャーさせてみた所、深夜に生きる人種のそれぞれが反応する番組として成り立っていたのである。6年という歳月は、深夜番組の帯枠としては非常に長い。今で言う所の「オビラジR」(オビガールRという女子大生やタレントの卵が擁するレースクイーン衣装の女性グループがいる。HPに「情報に敏感な女性たち!」とある)や、「ショーパン」(フジテレビアナウンサー・生野陽子が必ずショートパンツを履いて登場する番組。10月からは新人アナウンサー・加藤綾子による「カトパン」へ移行)がその代替に当たるのだろう。スタイルは違えど、内容と温度は変わらない。ワンダフル的、は未だ深夜番組を牛耳っていると読んでいい。しかし、ワンダフル的、はワンダフルに成りきれているわけではない。歳月を要するのだ。

深夜番組は内容ではなく環境であると冒頭から言ってみせたのは、「エロ番組」と「長寿番組」という2本の柱において、現在の深夜番組が返答しきれていないという実感があったからなのかもしれない。深夜番組って今どうなのよ、という視座は必ず何かしら特定の番組に行き着くのだろうけども、その番組は果たして深夜番組を背負っているのだろうか。そのショートカットに注意したい。深夜番組とは何か、との設問に対して、解答するにふさわしい番組を現時点では見つけられない。深夜番組とはどういうことか、がグラついているのである。しかし、そのグラついているという証明を成せる深夜番組ならある。順路が滞って面倒だが、そう、DA PUMPである。

「夜更けに、観たくもないDA PUMPを観るということ」、実はこのタイトルがこの論考の結論である。番組ごとではなく深夜番組を総体として体感した際にこぼれ落ちる的確な一言である。ここ最近、DA PUMPについて考えたことがあるだろうか? なかなかブツが出てきてくれず長期戦に持ち込まれたトイレの中で、一向に空く気配の無い満員電車の中で。僕は無い。木村拓哉が自分自身の歌声に自信を持っちゃってるのではないか、という疑いなら四六時中持っているのだが、DA PUMPに関しては思考停止していた。いや、思考停止が許されていた。あいつら落ちぶれたよな、と漏らすような状態だとすれば、どうしてDA PUMPは落ちぶれたのか、という議論をしなければならない。しかし、DA PUMPは落ちぶれたわけではない。メンバーの一人が欠けたとはいえ、DA PUMPに対して各々が持っていたDA PUMPらしさはそれがどんなものであれ、ある程度保持している。少年隊が少年ではなくなる、というのがアイドル業界にとっての最も分かりやすい変化だったわけだが、DA PUMPはそういった激変と無縁である。ISSAもその両脇もごく普通に加齢している。仮に貴方がISSAに悪ガキという称号を与えていたとして(笑)<←文中に(笑)を組み込むのは好きではないがこれはどうしても付けざるを得ない>、久々にISSAを見かけたなら、ISSAは悪ガキのままであると思う。ブランディングが成功しているとは思えないが、ブランド作りで失速しているわけでもない。それが現在のDA PUMPであろう。

家帰ってパソコン開いてメールなり見て風呂湧かしてまだかなと覗きにいったらまだまだでそれなら少しテレビでも見てみるかとリモコンを押すと、そこにはDA PUMPが映っているのだった。何度か続いた、神がかり的なDA PUMPの登場。意図しないDA PUMPの連続は、「深夜番組がグラついている」という思いに至るキッカケとなった。DA PUMPの3人がメイン司会を務める深夜番組「スーパーチャンプル」なる素人参加型ダンス番組は、06年10月スタートとあるから、丸2年もの間、彼らで持たせてきたわけである。素人番組はそこにいる芸能人への比重が高くなると考えてよい。その中でのDA PUMPである。マドンナ役のごとくサポートする女子は鈴木紗理奈である。ここにも議論の勃発を感じるがとりあえず雑に火消ししておこう。素人がダンスバトルするという、いつの時代にもある系統の番組を、今この時代はDA PUMPが守っている。この起用をどう考えたらいいのだろうか。

素人がダンスを披露し、また披露し、もういっちょ披露したくらいの所で、番組はフリーバトルに移る。イェイとかヒャッホイとか言いながらオマエはどういうダンスを見せてくれるんだヘイユー、とバトルが始まる。グルングルン回るメンズに、素早い腰フリで応えるレディース、拮抗するバトルに会場は沸く。ほいじゃあそろそろ、と満を持して、ISSAがフロアに飛び入っていた。身は軽い。ちょっと頭皮が後退した印象は拭えないが、グルグル回っていれば毛根も悲鳴をあげるものなのだろう(適当)。ダンスフロアのアンちゃん感を見せつけるKENの存在は大きい。素人ダンサーとプロの間を行き交って、おぅオマエちょっと今度こっちのイベントで踊ってみないと誘う、そういう感じの頼りがいがある。最盛期には「かわいい弟」的存在(GLAYのJIROも同様)で人気を博していたYUKINARIだが、どうにも体が重い。肥えたとは言わないが、これから肥えそうな不安が、ダンスの動作ごとに漂ってくる。

この番組におけるDA PUMPの存在が、圧倒的でも、安定的でも、消極的でも、否定的でもない。○○的と称せる変化をもたらさないのである。DA PUMPなのに、である。素人に溶けるわけでもなく、素人と共にDA PUMPが機能する。繰り返すが、DA PUMPなのに、である。

深夜番組というのは、いかに特異かが求められると思われがちである。先ほどの話でいえば、おっぱいが観られるということであり、シュールなコントが観られる、ひたすらな何か(テレショップ/環境映像)が許される、このように特異であるからこそ深夜番組なのだとされている。だから、語られやすい。こんなに違うんだよね深夜って、と。

そんなことはない。DA PUMPの佇まいには一切の特異性が無いじゃないか。それって先ほどの「ワンダフル的」であるとも言えるだろう。ただそこにあるだけのワァーキャーである。ISSAがフリーダンスの場面でいきなり中指を突き出してラディカルなダンス(そんなのがあるか知らないけどそういう形容はありそう)を披露すれば、深夜番組評論としては深夜番組的でありがたいのかもしれないが、何回かの改編をくぐり抜けたDA PUMPのダンス番組は、三者にプラス何かを求めていないのである。これは深夜番組を考える上で象徴的な出来事だと思う。深夜番組に必要なのは、こんなんどうだ新しいだろ危険だろ、ではなく、これでいいのだ、なのではないか。別にこれでいいじゃん、なのだ。テレビを付けてそこにはダンスに興じるDA PUMPが映る。それを観る。観ようと思って観ているわけではない。フリーダンスという自己主張の分かりやすい形に対してもDA PUMP自体は尖ってこない。だから視聴者もそのまま見過ごす。踊ってるな、程度である。盛り上がっているな、という、深夜番組の常套作法である。

このCINRA MAGAZINEの特集もそうなのだろうし、「QUICK JAPAN」を中心としたサブカルチャー誌の「サブ」で共鳴させる深夜番組考は、番組単体には寄りかかれるが、「何故、深夜番組を観るのか」というような総体的な設問に答えるものではない。ある深夜番組に向かって、認めたり貶したり、可能性を感じたり、コピペのようだと嘆いたり、そういったフリーゾーンの広さは深夜番組が持つ確かな特権である。否定はしない。そういう雑誌やこの特集だって楽しみだ。しかし、深夜番組を観るとはどういうことか、に答えなければならないのだとすると、最近の深夜枠は熱いっすよねーとギラギラ討論する皆を冷静に遮って、「夜更けに、観たくもないDA PUMPを観るということ」と答える。これが実直な答えである。かつての深夜番組はこういうものだったなどと思案を巡らせることで考えようと思えば考えられることが沢山浮上してくるだろうけども、そもそも深夜番組とはこういうものなのだ。考えようと思えば考えられることを考えてはいけないのだ。「夜更けに、観たくもないDA PUMPを観るということ」なのだ。まずその立脚点を忘れずに深夜番組を嗜んでいきたい。

 

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