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「フジワラノリ化」論
−必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考−
第3回 軽部アナ

藤原紀香ってすげーな、セクシーだな、という声を街中で聞いたことがない。紀香のようになりたい、紀香のような女を自分のものにしたい、「欲」の先に藤原紀香を見つけられないのだ。誰が藤原紀香を認めているのか、羨望しているのか。テレビの中にいる彼女と、外に出されてそこで評価される彼女の実像に、っていうか、そもそも評価の実像自体が彼女にあるだろうかという迷いに似た前提からの問いかけをずっと持ってきた。確実に位置は高い、でもその位置を誰が肯定しているのだろうか。そういう藤原紀香のような在り方を「フジワラノリ化」と名付けて評論することで、必要以上に見かける気がするあの人についての輪郭を明らかにしたい、これがこの連載の意図である。前回、前々回と、フジワラノリ化している人物として、渡辺満里奈、中山秀征を取り上げた。どちらも積極的に論じられずに宙ぶらりんで泳がされてきた2人である。分析を試みれば、逆にそれは宙ぶらりんだったからこそ泳いでこられたという生存方法でもあった。まな板の上に乗せられない鯉の強みがあった。そしていざ乗せてみた所で、料理方法が分からなくなった。「フジワラノリ化」する著名人は、往々にして断じ方が定まらない。これこれこうだからああなんですよ、には留まりようが無い。だから論考が長くなる。しかしこれは決定的論考である。これに耐えてくれさえすれば、その人に対する漠然を取り払うことができるはずだ。普段考えない人について考える、一回きりで構わないのだ。だからこそ、しばしお付き合い願いたい。渡辺満里奈、中山秀征に続く第3回は、軽部アナ。そう、フジテレビアナウンサーの軽部真一である。

 

まず、「めざましテレビ」の強度

軽部アナを論じるとはすなわち「めざましテレビ」の芸能レポーターとしての彼をどう捉えるかである。笠井アナとの「男おばさん」という番組もあったが、世のイメージに入り込むほどの知名度には至らなかった。毎朝芸能ネタを振りまく彼を観てから家を出る、或いは寝ぼけ眼でテレビ画面をうつらうつらと、という人は少なくないだろう。「めざましテレビ」は近年の女子アナブームにおけるベーシックな形でもある。頂点、とは言わないが、象徴的なポジションで女子アナを持ち込んでいる。高島彩がいて、サブに中野美奈子がいる。この贅沢さに身を任せていると、お天気コーナーでは皆藤愛子が登場する(ちなみに彼女はアナウンサーではない。フジテレビのアナウンサー試験を最終面接で落ちたという情報もある)。女子アナのタレント化を嘆く声が多いが、私には女子アナがタレント化しているとは思えない。女子アナはタレントではないからこそもてはやされるのだ。よく出てくるとか人気があるとかっていう状態を安直に「タレント化」と表してしまうのは余りに下品である。めざましテレビにタレントはいない。しかし、豪華である。ドラマの告知でキムタクが出てこようが、「めざましテレビへようこそいらっしゃいました」という空気感が最初におとずれる。ズームインや特ダネでこの空気は作り出せない。それらは割と乗っ取れるのだ。大塚アナはまるで父のようである。隣に長女(高島)を置き、少し離れた所に次女(中野)を置き、呼びかければ三女(皆藤)が答えてくれる。美人三姉妹の父子家庭を朝から見せられているのだ。最近、不倫騒動で話題となった渡辺アナも出てくるが、これは誰かの夫のように見える。高島なのか中野なのか、お父さん公認で付き合っている彼氏なのかもしれない。番組に漂うハピネスが贅沢さに裏打ちさせながら微動だにしない。このハピネスが、いつも変わらない朝の情報番組に最も必要な要素である。だからこそ家族的で無ければならない。みのもんたという頑固オヤジの独裁は子供が居なくなった昼間であれば機能するが、朝には厳しい。ズームイン朝には西尾アナがいるが、めざましテレビの三姉妹と比較すると、どうにも役目を背負いすぎているのである。母と姉と妹の役目を自分だけでこなしている。子供のお弁当を作りながらOLファッションに身を包みゼミの課題をこなすようなチグハグ感が、朝の時間帯にストレスとなって表出してしまっている。「めざましテレビ」というホームドラマは、いつも安泰である。軽部アナの存在を忘れてしまえば……。

 

なぜ今、軽部アナなのか?

そもそも男性アナへの期待は、どこにあるのか。女子アナのあれこれの後にまわされてしまう男性アナの力点を捉える必要性がありそうだ。女子アナのそれに追いつくかのように、男性アナもイケメンが増えてきている。渡辺アナであり、田淵幸一の息子であり、「学生時代にはスポーツ系のサークルで汗を流して、今は製造メーカーの営業やってます」というような社会人的な初々しき爽やかさが画面から漂ってくる。女子アナに対する、ニュースを読めなくても顔が良けりゃイイという雑な評定と同じようにして、男子アナは爽やかならそれでイイ、という大ざっぱな印象論が被さってきている。しかもそれは必ず女子アナのあれこれを終えた後にやってくる議論だから濃度はいっつも薄い。日テレの羽鳥アナやフジの伊藤アナのように、爽やかさが一通り抜けきった後に三枚目の要素を着色しなければならない苦悩、男子アナの「次」の難しさが見え隠れする。そこから大塚アナや福澤朗クラスまでに昇進するには長年の鍛錬と突拍子の無さが同時に問われてしまう。男子アナの延命は、なかなかどうしてルールが見つからない。軽部アナという存在が不明瞭なのは、爽やか→爽やかさからの脱却→大御所への道程、この道に見当たらないがゆえなのである。笠井アナは大御所への道程にいる。小倉智昭が北京五輪へ行けば、すんなりとセンターを代行する。しかし、大塚アナの代わりに軽部アナは置けないのである。軽部アナの所在を明らかにしなければならない。彼はどこにいるのか。そしてその居場所を突き止める行為は、男子アナの狭い選択肢に別の回答を差し出すことになるかもしれない。その期待を持ちつつ軽部アナの細部/深部に迫ろう。

 

体に染み付いた評論体質について

小倉智昭はやたらと評論をする。冒頭、おはようございますっ、と頭を下げて、新しく出たCDを掲げながら、いやぁこの作品は時代を変えるでしょう、どこまでも突き抜けていくハイトーンが体内の興奮を呼び覚ますんですよね、みたいな、音楽雑誌のレビューをそのまま読んだようなコメントをする。絢香のライブを観たとなれば、思わず泣いてしまいましたと、自分の視点からスタートさせて、視聴者に「小倉さんが言っているんだから、本当に素晴らしい」のだと思わせようとする。個人的にそれに感化されたことはないが、しかし、それは許されるべきだ。なぜなら特ダネは小倉の番組だから。そこで笠井アナが横入りして、でもね、一青窈もやっぱり優れた歌手ですよと語りだしたら、それは越権行為である。しかし、軽部アナはそれをやるのである。いや、それしかやらないのである。芸能担当のアナウンサーとして事実を伝えるだけではなく、一言挟むのである。「私も昨日観に行かせていただいたんですが…」というのが軽部アナの常套句だが、そこから始まる一言二言の評論は、本来であれば大塚アナクラスが許されるべきものであって、軽部アナが大塚アナに聞き出すくらいの腰の低さでなければならないはず。大塚アナが、対象に対してそれなりのコメントを差し出すということをもはや諦めているので、それはそれで別の問題なのだが、軽部アナの体に染み付いた評論体質は、その評論内容がどうだこうだではなく、そもそもの行為として有りか否かを問われる必要性が無いだろうか。その評論体質、具体例で考察してみよう。

 

実例:安室奈美恵への上から目線

安室奈美恵6年ぶりのベストアルバムは大ヒットを記録し、安室奈美恵のカリスマとしての神性はすっかり舞い戻ったと言える。そのベストアルバムに際して、軽部アナがインタビューを敢行した。繰り返すが、安室奈美恵である。もう10年以上も音楽シーンのトップに君臨するミュージシャンに、軽部アナはソファーに肘をつきながら話し始めた。ヴィダルサスーンのセクシーなCMについて「(あんなにセクシーな路線で)大丈夫ですかね?」と謙虚になる安室に対して、「大丈夫ですよ。大丈夫というか、あのCMは、アナウンサーとして使ってはいけない言葉だけど、ヤバイ」。口を開けてビックリする。そこに謙虚さは付随しない。言っておきたかった、というような顔をする。聞き出す、というより、ジャッジをしているのだ。評論家なのだ。安室へのリスペクトが集まる中で、本人はあくまでも謙虚だ。「かわいいもきれいもセクシーも自分にはあまり合っていないんじゃないかな」と照れてみせる安室に軽部は「いや、全部あてはまってると思うけど」と、何故かタメ口で、僕が認めておくからそんなことないってというようなムードを作る。軽部アナがアナウンサーではなく、そこいらの音楽ライターさんなら、間違いなく次は無いだろう。VTRが終わり、スタジオでは安室の話題に花が咲く。大塚アナは「屈託のない笑顔を見るのは久しぶりですよね」と、それはそれで意味深すぎないかという発言をし、それを察知した長女・高島アナが「とても30歳には見えませんよ」と優等生発言で軌道を修正する。そこで軽部アナが再登場。「(ここ最近の安室の)歌の難しさ、でもね、やっぱり聴いていると日本語が見事にメロディーに乗っかっていて、聴くと心地よいんですよ」と、ここでも音楽ライターさんで、ファッションがどうの、若い女性のカリスマだ、みたいなVTRのまとめとしてはおよそ不適当なまとめをして次の話題へうつっていった。これが許されるのは、前述したように小倉智昭のポジションに限られる。ネタの帰着点を決められる立場ではないはずなのだが、めざましテレビは軽部アナにそれを許容させている。インタビュー自体の編集もその許容のもとに編まれていた。安室の回答で繋ぐよりも、安室の回答への軽部アナの更なる回答で繋ぐのだ。これはワイドショーの作り方においてなかなかあり得ない。音楽雑誌のロングインタビューで、話題展開の際に、書き手が文面を足して繋ぐケースがあるが、軽部アナのやり方はそれに近い。朝方のワイドショーなのに、ジャーナリスティックでいることが、番組内の空気として許容されているのである。

 

蝶ネクタイから何を汲み取るべきか

軽部アナといえば蝶ネクタイである。なぜ蝶ネクタイなのか、その答えを軽部アナが持っているのかどうか知らない。アナウンサーは聞く立場だから聞かれることは少ない。例えば軽部アナがアナウンサーではなく何がしかならば、開口一番で「なぜ蝶ネクタイなのか」と聞かれ続けるだろう。人というのは何かを聞かれるたびにそれを精査し反映させる。より派手な蝶ネクタイになるかもしれないし、蝶ネクタイをやっぱり止めるかもしれない。それは、誰かが蝶ネクタイについて「何故なのだ」と言及してあげなければどちらにもなりえない。その点で軽部アナの蝶ネクタイは、ひらひらと宙に浮いている。蝶ネクタイとは、フランス傘下にあったクロアチア人の兵士が、シャツの周りに巻いていたスカーフを蝶のような形に結び、その結び方が流行することであのような蝶ネクタイそのものが生まれていったという歴史を持つ。今ではフォーマルな場所で使用されることの多い蝶ネクタイだが、とはいえ日本で使用する機会は多くない。結婚式くらいかなあとも思うけども、かといって結婚式で蝶ネクタイをつけてくる人を見たことがない。高級そうなレストランのウエイターがつけているくらいだろうか。要するに、もはや記号的なアイテムなのである。手品師が手品師っぽくみせるための蝶ネクタイなのだろうし、ホテルマンがホテルマンっぽくみせるための蝶ネクタイなのだ。では、軽部アナの蝶ネクタイは何を何っぽくみせるための蝶ネクタイなのか。その意味が不在なのである。しかし蝶ネクタイでいることに異を唱える人間はいない。「自前で30個、スタイリストが50個持っている」という情報があるが、その日の気分によってチョイスする蝶ネクタイが変わってくるのだろうか。軽部アナの蝶ネクタイに関しては何らかのバローメータにするしか、今の所、方法が見当たらない。一貫して言えるのは、軽部アナは語られないがゆえに自由なのである。

 

目の奥は笑っていない

軽部アナの目を見てほしい。眼鏡の奥にある目を、見てほしい。絶対に笑っていない。この目を発見した時から、自分は軽部アナに関する考察を始めた。となりの姉妹たちを見てみよう。長女・高島は小動物のような目で笑いかける。次女・中野と三女・皆藤は、大きな目でこちらを吸い込むかのように笑う。出社前のサラリーマンは具体的に元気付けられるだろう。大塚アナは目で意思表示をする。喜怒哀楽を目で表す。音楽を聴きながらテレビをチラ見することが多いので音声がほぼ聴こえないままテレビを観ているのだが、音が聴こえなくても、大塚アナがどういう方面の話をしているのか、目を見れば分かる。しかし、軽部アナの眼鏡の奥の目は、絶対に笑っていない。大物俳優同士が結婚しようが、映画の興行収入が過去最高になろうが、脇役が闘病生活の末に亡くなろうが、おんなじ目をしている。「死んだ目」とはまたちょっと違うのだ。こちらに語りかけようとする意欲は感じる。そこはさすがにプロである。しかしその意欲の成分解析はさせてくれない。眼鏡の奥の目、ブラックホールのようである。その目に気付くと、笑えるネタに笑えなくなり、泣ける話題に泣けなくなる。有り難くもこの論考に目を通してくれている皆様、次に軽部アナを観る時は、目に注目してほしい。目だけをみて、ニュースを耳から入れ込んでほしい。私の言わんとしていることが分かるはずだ。

 

「奥様は女医」から何を受け取るべきか

唐突に下劣な話をしよう。女医というのは、男性を興奮させるキーワードである。AVの世界でも、困ったら女医の格好をさせておけば間違いない。家庭教師とか学校の先生とかナースとかスチュワーデスとか、いくつか定番のスタイルがある中で、女医の持つハイグレードさは他とは比較にならないものがある。言ってみれば西川女医は女医だからあそこまで権限を持てるのであって、もしも西川教授だったら、男性に対してあそこまで上空から散布するかのような物言いは許されないだろう。野球選手がスチュワーデスとくっ付くという古風な引き合わせは、スチュワーデスという記号があまりにも便利に女性的で、野球選手という記号もあまりにも便利に男性的だからである。女医、というのはその手の分かりやすさからは一定の距離を取りつつ且つ「間違いない」キーワードである。軽部アナは41歳の時に結婚をした。そのお相手はなんと、フジテレビの健康相談室で働いていた女医さんなのである。結婚式をレポした笠井アナの日記が今でもウェブ上に残っているのでご覧いただきたいが、とにかく美人の奥様である。下劣な話に戻る。社員と、その社専属の女医さん、トレンディドラマというよりこれはAVのストーリーである。男性諸君は繰り返し首を縦に振っていることと思う。そのAV的を軽部アナが実践する、これは今まで語ってきた軽部アナ像とは大分異なる方向性である。そこに評論体質はない。ベタである。あらゆるベタは、意外とそのまんまのベタを探し出すのは難しいものなのが、社員とその社員専属の女医というカップルは、そのまんまのベタを体現している。オフィシャルプロフィールの好きな映画欄に「美女と野獣」とあり、結婚式ではお色直し後に歌いながら登場しK&T「君の好きな人」を熱唱したという。軽部アナ自身はベタである。しかし、他者のベタを目の前にすると評論を試みてしまう。それは大抵、自己弁護とか自信のなさがそうさせてしまうものなのだけれども、軽部アナのそれには、そのネガティブさが一切付随していない気がするのだ。自信を持って「君の好きな人」が唄えるのだ。

 

軽部アナはナルシストなのか?

ここまでの議論を振り返ってみると、軽部アナは自分自身を下げて人と対応することをしない、という深部が見えてくる。人はそれをナルシストと呼ぶが、果たして軽部アナはナルシストなのだろうか。フジテレビならではのアナウンサー総動員企画番組で紅白歌合戦コーナーがあり、軽部アナは笠井アナとコブクロの「桜」をデュエットした。顔をしかめながらも立ち位置を動かず必死に唄う笠井アナの横で、軽部アナは手を広げ天を仰ぎ熱唱した。笠井的・軽部的が分かりやすく表出した瞬間だった。その紅白歌合戦の需要は、高島アナと中野アナのデュエットであり、若手女子アナのセクシー衣装によるピンクレディーだったのに、軽部アナはあくまでも天を仰いで唄った。シークレットゲストとして観客に紛れ込んでいた秋元康は「これじゃ毎分の視聴率が落ちるよ」と笑わせていたが、軽部アナはそうは言っても巧かったっしょというような同意を暗に求めていた。議論を急ぐが、かといって軽部アナはナルシストではない、そう考えている。ナルシストとは周りが見えていないマイワールドな人間を指すが、軽部アナは周りが見えている。しかし、その見方が妙なのだ。見方が一向に是正されないのは、やはり自分に向かってくる矢印が少ないからだろうか。女子アナは向かってくる矢印をどう避けるかが職業としての鍛錬である。(フリーアナとはいえ)山本モナは謹慎で、相手の二岡は坊主にしただけでもう一軍に戻っているのである。山本モナを観れば、各局の女子アナは「番組開始したその日」に「9800円のラブホに入る」のはやめておこうと、当然ながらの視座を獲得するのだが、軽部アナは、そういう当然の見え方を獲得する機会に恵まれていないのだ。

 

軽部アナの行く道

だれが軽部アナを好きなのだろうか。それは世代としてあり得るのだろうか、性別としてあり得るのだろうか、地域としてあり得るのだろうか。どれもあり得ない気がするのである。しかし、それは誰が軽部アナを嫌いなのだろうか、と設問を反転させても答えは同じなのである。すっごく好きな人もいない、すっごく嫌いな人もいない、でも軽部アナは毎日出てくる、これこそ「フジワラノリ化」という本稿で扱う人物としてふさわしいのだが、軽部アナは自身へ向かう評価の舵取りが絶妙なわけでもない。むしろ下手なのである。しかし、彼は浮上している。その浮上を上から叩きにかかるものはいない。披露宴の話に戻れば、「披露宴参加者の中から、軽部さんと交際のある、山下達郎・竹内まりや夫妻が歌のプレゼント!」をしたというのである。奇しくも、山下・竹内夫妻と言えば、評論だとか単なるプロモーション露出を嫌う音楽家の最たる2人である。しかし、軽部アナの前では、デュエットを披露してくれるのだ。これはどういうことなのだろう。軽部アナの「めざまし」以外には、何が潜んでいるのだろう。軽部の余白、が見えてこない。結局、その大きな余白にすがってしまう。だって「めざましテレビ」での軽部アナには「山下達郎と親交を深める」可能性がどこにも見当たらないのである。もしかしたら、女子アイドルに使われがちな「天然系」といういわれが意外にもフィットするのかもしれない。天然系は、懸命に対象に向かう。ある対象を持ち出して話せば評論になるし、唄えば熱唱になる。しかしそれは外から見れば、ある一定の喜劇性を含んでいる。だが実害がどこにも及ばない以上、それを除去する必要性に駆られない。だから自分もそれを精査しない。共演者なりは、だってそれにあの人はさ……と続けながら、アフター5ならぬ(めざましテレビが終わるのは8時だから)アフター8の軽部アナを持ち出すのだろう。そのヒントはある。オフィシャルプロフィールに自分の短所は「だらしないところ(例:デスクが汚い、たまにダブルブッキングしてしまう等)」とある。アイドルで言えば、「お部屋が片付けられないの」「友だちとの約束を忘れちゃうの」というやつである。しかし、手に入れられる情報はそれくらいで、視聴者にアフター8の機会は訪れない。その機会が欲しい。今更な話、ブログでもいい。アフター8の軽部アナの目の奥が笑っているかもしれない可能性をどこかで当たらせる。その柔和さを、軽部アナ自身に求めたい。ガードが固い天然系は一番打ち崩しにくいのだ。

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